富士社社殿 附棟札
- よみ
- ふじしゃしゃでん つけたりむなふだ
- 市指定年月日
- 昭和49年12月13日
- 所有者
- 日枝神社
- 所在地
- 高山市城山156番地
- 時代
- 寛延元年(1748)
- 員数
- 1棟、2枚
- 法量など
-
社殿は桁行6.82メートル、梁間4.54メートル、三間社流造、正面千鳥破風、軒唐破風付・銅平板葺
棟札- 表面には、奉上棟造立郷本社 寛延元年十月建立 大工棟梁松田太右衛門以治十分一地割 大工廣田武兵衛良親松田太平次以水 中村忠五郎宗茂 音頭廣田藤右衛門政春ほか12人の名、裏面には工作手間967工半、それに従事した大工と手間の明細が記載されている。
- 表面には、奉極彩色山王本社(中略)頼旹代、裏面には願主三之町角竹市助ほか6人と年号文化七年七月と記されている。
日本遺産構成文化財
解説
日枝神社は、三仏寺城の城主飛騨守平時輔朝臣が、ある日狩に出ていて奇瑞のことがあったので、永治元年(1141)に日吉山王(本社は大津市坂本町)を勧請したのが起源とされている。その後、時輔の曽孫景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元年(1181)に源義仲に攻められて落城した。社殿も兵火にかかって焼失したため、御霊代は片野村杉ヶ平(現在の杉ヶ丘)に奉還し、片野村の産士神となった。
金森長近は飛騨へ入国すると、これを高山城の守護神として現在地へ奉遷したのである。寛延元年(1748)10月、郷の本社としてこの社殿が建てられ、文化7年には極彩色の修理を行なっている。当時は、両部習合神道と山王一実神道を以って松樹院が設けられ、山王権現宮と呼ばれた。飛騨国分寺との関係をもっていたが、文政9年(1826)には京都真言宗仁和寺の末寺となった。明治2年、神仏分離政策により社名を日枝神社とした。
昭和10年、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13年4月に新本殿を建てた。旧本殿は破損箇所を修理して末社殿として移築し、現在に至っている。この末社殿には富士神社ほか2社の御霊代を祀ってある。
流造に千鳥破風、軒破風を取り入れた屋根形態をもち、極彩色が施されているのも珍しい。飛騨の名工松田太右衛門の作である。
平成7年、外観の極彩色の修理が行なわれ、当初の色彩がよみがえった。
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