富士社社殿 附棟札

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号 T1000881  更新日  令和3年12月18日

印刷 大きな文字で印刷

よみ
ふじしゃしゃでん つけたりむなふだ
市指定年月日
昭和49年12月13日
所有者
日枝神社
所在地
高山市城山156番地
時代
寛延元年(1748)
員数
1棟、2枚
法量など

社殿は桁行6.82メートル、梁間4.54メートル、三間社流造、正面千鳥破風、軒唐破風付・銅平板葺
棟札

  1. 表面には、奉上棟造立郷本社 寛延元年十月建立 大工棟梁松田太右衛門以治十分一地割 大工廣田武兵衛良親松田太平次以水 中村忠五郎宗茂 音頭廣田藤右衛門政春ほか12人の名、裏面には工作手間967工半、それに従事した大工と手間の明細が記載されている。
  2. 表面には、奉極彩色山王本社(中略)頼旹代、裏面には願主三之町角竹市助ほか6人と年号文化七年七月と記されている。

日本遺産構成文化財

解説

 日枝神社は、三仏寺城の城主飛騨守平時輔朝臣が、ある日狩に出ていて奇瑞のことがあったので、永治元年(1141)に日吉山王(本社は大津市坂本町)を勧請したのが起源とされている。その後、時輔の曽孫景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元年(1181)に源義仲に攻められて落城した。社殿も兵火にかかって焼失したため、御霊代は片野村杉ヶ平(現在の杉ヶ丘)に奉還し、片野村の産士神となった。
 金森長近は飛騨へ入国すると、これを高山城の守護神として現在地へ奉遷したのである。寛延元年(1748)10月、郷の本社としてこの社殿が建てられ、文化7年には極彩色の修理を行なっている。当時は、両部習合神道と山王一実神道を以って松樹院が設けられ、山王権現宮と呼ばれた。飛騨国分寺との関係をもっていたが、文政9年(1826)には京都真言宗仁和寺の末寺となった。明治2年、神仏分離政策により社名を日枝神社とした。
 昭和10年、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、昭和13年4月に新本殿を建てた。旧本殿は破損箇所を修理して末社殿として移築し、現在に至っている。この末社殿には富士神社ほか2社の御霊代を祀ってある。
 流造に千鳥破風、軒破風を取り入れた屋根形態をもち、極彩色が施されているのも珍しい。飛騨の名工松田太右衛門の作である。
 平成7年、外観の極彩色の修理が行なわれ、当初の色彩がよみがえった。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会事務局 文化財課
電話:0577-35-3156 ファクス:0577-35-3172
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。