照蓮寺宣心、室さな姫の墓
- よみ
- しょうれんじせんしん、しつさなひめのはか
- 市指定年月日
- 平成12年5月22日
- 所有者
- 高山別院
- 管理者
- 松本史跡保存会
- 所在地
- 高山市松本町2104番地
- 時代
- 17世紀後半
- 員数
- 1カ所
- 法量など
- 899平方メートル
解説
金森家3代重頼の3男従純は、照蓮寺15世を継ぎ宣心と称し、寛永18年(1641)に東本願寺13世宣如の娘さな姫を迎えた。本山からの隆嫁は当時としては異例のことであり、金森家としては領民の統制のうえで、また照蓮寺としても領主の庇護が得られ互いに好都合であった。当時宣心は19歳、さな姫は9歳であった。
宣心は、松本町の今の墓のある台地から山腹にかけて「松亭」という豪壮な別荘を建て、公家や俳人、茶人らを招いている。またこの地は風光明媚な所で、ここから眺めた風景は「松亭八景、十勝」とよばれ歌が詠まれている。
さな姫は慣れない山国飛騨での生活と夫の乱脈な性格に耐え、3人の子を育てながら、教化に努めた。
結婚20数年を経た頃から病を患い京都にて療養を続けたが、寛文7年(1667)35歳で没した。法号を揺台院釈宣純といい、遺言により生前住まいした松亭の一画に葬られた。また宣心は延宝3年(1675)に没し、法号を龍興院釈宣心といった。
さな姫の傍らに葬られ、墓標には両人の法号が刻まれているが、俗にさな姫様の墓と呼ばれている。現在墓の入り口には門が建ち、墓標として本願寺から贈られたという老松は明治の終わり頃枯れ、現在は切り株の周囲に3本の松が立っている。また参道に敷き詰められた石臼は、さな姫が生前自ら石臼をひいたという遺徳を偲んで、近郷近在の門徒らが寄進したもので、墓の脇のこんもりとした土盛りはさな姫が京都を偲んで遥拝した場所という。
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