鍋山城跡

ページ番号 T1000963  更新日  令和3年12月21日

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よみ
なべやまじょうせき
県指定年月日
昭和31年11月14日
管理者
鍋山城跡史跡保存会
所在地
高山市漆垣内町、高山市松之木町
時代
室町時代(16世紀)
法量など
城郭全体267937平方メートル
山城 本丸跡1700平方メートル、本丸の石垣残存地域1400平方メートル、二之丸跡1400平方メートル、出丸跡1300平方メートル、土塁残存地域200平方メートル

解説

 鍋山の名称は、その山の形から起こった。城は3つの山によって構築され、大鍋山山頂に本丸、小鍋山に二之丸、下鍋山に出丸があった。
 本丸は標高752メートルの山上にあり、中央に「奉敬鍋山権現」と刻んだ石碑がある。東側に石垣が現存する。二之丸は巨岩のそびえ立つ自然の要害で、西南隅に石垣が残存する。この地域は、3段構成になっている。出丸は下鍋山(七夕岩)の頂上に縦75メートル、横20メートルの長方形の平地を残す。土塁跡は本丸からニ之丸に至る途中、フダンド(普段道)を登りつめたところに長さ30メートルほどの土塁跡が現存し、フダンドを下ったところに、三木三沢の首をさらしたという首塚がある。
 四天王神社脇から東洞を登る道を大手道といい、字五名より登る道が搦手道である。
 高山市内には10ヵ所以上の城跡がある。これらの内、三仏寺城と高山城を除くと、他はほとんど戦国時代に使われたものである。室町時代の末期、幕府をはじめとする伝統的な勢力の権威が弱まり、各地で小領主が対立抗争をしていたが、戦国時代はこれらの小領主が強力な政権に統合されていく過程だったといえよう。戦国時代の城は、江戸時代のものと比べると規模も小さく、山の上などに造られている。江戸時代の城は、広大な領国の政治、経済、文化の中心であるのに対し、戦国時代のものは小領主によって軍事拠点として造られたためためである。
 鍋山城の創築については、室町時代の初め頃とする説と、戦国時代や天文年間(1532年から1555年)とする2つの考え方があるが、前の説を裏付ける証拠がないため、天文年間に三仏寺城から移った豊後守安室が創築したと一般に考えられている。
 安室は大八賀郷を領有していた小領主の1人で、鍋山へ移ってから山の名をとって、鍋山氏を称した。ところが、安室が鍋山城を築いたころ、飛騨南部の益田郡で強大になった三木氏が大野郡にも進出していた。畑佐城の山田氏、天神山城の高山外記は三木自綱に滅ぼされ、安室も三木氏にくだり、自綱の弟顕綱を、保身のために養子に迎えている。後に安室は顕綱に鍋山城を追い出され、鍋山城は三木氏の城になってしまった。
 一方三木自綱は、さらに勢力を増して松倉城を築き、八日町(現在の国府町八日町)の合戦で北飛騨の江馬氏を滅した。天正10年(1582年)また、甲斐の武田氏と通謀したとして、鍋山城の顕綱を殺し、自分の次男秀綱を入れて天正12年(1584)ほぼ飛騨全体を掌握した。
 しかし、既に本能寺の変を経て、羽柴秀吉が天下を握ろうとしていたが、三木自綱は佐々氏と組んでこれに従わなかったため、秀吉の命を受けた金森氏の攻撃を受け、天正13年(1585)には滅びてしまった。
 飛騨を与えられた金森氏は最初、鍋山城を居城とし、城下の建設にも着手した。しかし広い土地がなく、交通の便も悪くて城下町を営むに向かないとして、数年で高山城を建設し、鍋山城は廃城となってしまった。

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