赤保木瓦窯跡
- よみ
- あかほぎかわらかまあと
- 国指定年月日
- 昭和51年11月9日
- 所有者
- 大坪重雄(高山市赤保木町1208番地)
- 管理者
- 赤保木史跡保存会
- 所在地
- 高山市赤保木町釜ヶ洞54、55番地
- 時代
- 奈良、平安時代(8、12世紀)
- 員数
- 54番地のうち実測408.78平方メートル、55番地のうち実測1451.87平方メートル、計1860.65平方メートル
解説
赤保木瓦窯跡は、奈良時代の国分寺造営にともなって、その使用瓦を焼いた所として古くから著名である。
調査の結果、旧来から知られていた国分寺瓦窯一帯には、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけた須恵器窯2基(5、6号窯)、国分寺瓦窯4基(1、2、3、4号窯)計6基の古窯が群集していることが判明した。
瓦窯は、煙出しの部分が山の崩壊によって一部欠損しているが、保存状態は極めて良好である。4基の窯は構造がほぼ同じで、山の傾斜面をくり抜いた登窯である。焼成室は瓦を置くため段をもっている。
1号窯は全長8.34メートル、巾0.75メートル、焼成室には16段あり2度修復されている。
2号窯は全長9.38メートル、巾1.08メートル、天井部分が完全に遺存しており、焼成の途中放棄されたようである。4度修復されており、段数は現在不明である。
3号窯は全長8.14メートル、巾0.70メートル、焼成室は段数6段で各段の巾が広く、他の窯と異なっている。3度修復されている。
4号窯は2号と3号との間にあり、煙出しの部分が2号、3号の焚口付近に位置し、最も下方にある。窯は天井部分が完全に残っているが、主体が下部の灰原中にあり未調査である。幅が1.0メートルで段が同様に存在する。
これら4基の窯は築造の順序が4、2、3、1号となっているが、各窯は出土した軒瓦の文様から見るとほぼ同様のものを焼成しており、国分寺造営に伴って短時間に1基ずつ窯を作りかえながら焼いたと考えられる。
出土遺物には、軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、垂木先瓦、鬼瓦、鉄製鎌、土器類などがある。
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