国分尼寺金堂跡
- よみ
- こくぶんにじこんどうあと
- 市指定年月日
- 平成元年2月7日
- 所有者
- 辻ヶ森三社
- 所在地
- 高山市岡本町2丁目128番地
- 時代
- 奈良時代から平安時代(8世紀から)
- 員数
- 寺院跡1カ所
- 法量など
-
1300平方メートル
基壇、礎石、礎石跡など日本遺産構成文化財
解説
飛騨国分尼寺の位置については、辻ヶ森三社一帯、高山盆地の北に広がる国府盆地内の寺跡(塔ノ腰廃寺)など諸説があった。大正年間、押上森蔵が当社幣殿下に礎石を発見し、国分尼寺と推定をした。その後、数回幣殿周辺の畑・水田を発掘調査したが遺構は確認されなかった。
昭和63年5月、社殿改築を機に、高山市教育委員会が発掘調査を行ない、国分尼寺金堂跡を発見した。
国分尼寺金堂の規模は、基壇の大きさが正面幅110尺(32.78メートル)、奥行66尺(19.67メートル)で、基壇上には桁行7間、梁間4間の礎石建物が建てられていた。柱間寸法が、桁行中央3間の14尺、両脇が各13尺、庇は各10尺、計88尺である。梁間は身舎2間が各12尺、庇は各々10尺、計44尺であった。
ちなみに、国分僧寺の創建時の金堂跡の規模は、正面桁行7間、梁間4間の建物で、梁間寸法計は尼寺と2尺の差をもつが桁行き法計は、88尺と同じ大きさであることが注目される。
構造で注目すべきは床面敷石で、南側正面1間分が吹きはなしで、奈良の唐招提寺金堂と同じ様式であった。そのほか、金堂身舎中央に鎮壇具埋納土壙の存在を確認、遺物は各トレンチから鬼瓦片、平瓦片などが出土した。
また、基壇の版築は、高さ120センチメートルで、たたきしめられ、非常に硬く安定していた。
国分尼寺は全国的にみて、その位置や構造など詳しいことがわかっておらず、飛騨国分尼寺のように建物構造まで明らかになったのは、大変稀有の例である。
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