赤保木古墳群
- よみ
- あかほぎこふんぐん
- 県指定年月日
- 昭和45年1月20日
- 所有者
- 赤保木史跡保存会
- 管理者
- 高山市
- 所在地
- 高山市赤保木町
- 時代
- 古墳時代(5世紀)
- 員数
- 5基
解説
赤保木町は江戸時代、大野郡三枝郷赤保木村といい、『斐太後風土記』によると村高148石、家数30、人数170人であった。明治8年(1875)に清見村の大字となり、明治22年(1889)からは上枝村の大字になった。産土神の熊野神社周辺には成田正利の墓、国分寺の瓦窯跡、住居跡など史跡が多い。
古墳群は川上川左岸の河岸段丘につくられる。江戸時代の絵図には9基の古墳がみられ、「九ッ塚」と呼ばれていたが、明治末期に2基が消滅、現在は5基が残っている。大正2年、5号古墳の北東にあった6号古墳が土採りのため破壊され、その際次の遺物が発見された。
環頭太刀1、直刀4、曲玉10、管玉12、小豆玉12、丸玉1、金環7、鉄鏃50。出土遺物は熊野神社と日下部家に所蔵されている。
昭和24年、3号古墳の一部崩壊した所から直刀1口が出土している。(『高山市史』による)
平成4年、古墳広場の整備に伴い5号古墳の発掘調査をしたところ、竪穴式石室であることが判明した。また、北側に隣接して板状の石を組み合わせた箱式石棺も発見され、いずれも時期は5世紀と推定される。高山盆地で最も古い古墳は、5世紀中頃の冬頭王塚古墳とされているが、この5号墳との時期比較が課題となる重要な発見となった。
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