山崎弘泰墓

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ページ番号 T1000983  更新日  令和3年12月21日

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よみ
やまざきひろやすはか
市指定年月日
昭和56年7月13日
所有者
山崎家(鎌倉市)
所在地
高山市神明町1丁目霞ヶ岡
時代
元治元年(1864)
員数
1基ほか

解説

 弘泰は通称を十郎右衛門、蛍園、西湾、花里翁などと号した。高山陣屋に勤め、地役人頭取に進んだ。
 田中大秀、赤田臥牛に学び、引化4年(1847)には大秀の文台を継ぎ、多数の門弟の指導にあたった。天満森に花里文庫を設け、師の荏名文庫の蔵書を移して保管した。また同所に退筆塚を建てた。
 文久2年(1862)1月2日没、享年66。『蛍園集』、『高原日記』などの遺稿がある。
 墓の形態、規模は稀なもので、亀の甲羅の上に棹石が乗っている。

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