山崎弘泰墓
- よみ
- やまざきひろやすはか
- 市指定年月日
- 昭和56年7月13日
- 所有者
- 山崎家(鎌倉市)
- 所在地
- 高山市神明町1丁目霞ヶ岡
- 時代
- 元治元年(1864)
- 員数
- 1基ほか
解説
弘泰は通称を十郎右衛門、蛍園、西湾、花里翁などと号した。高山陣屋に勤め、地役人頭取に進んだ。
田中大秀、赤田臥牛に学び、引化4年(1847)には大秀の文台を継ぎ、多数の門弟の指導にあたった。天満森に花里文庫を設け、師の荏名文庫の蔵書を移して保管した。また同所に退筆塚を建てた。
文久2年(1862)1月2日没、享年66。『蛍園集』、『高原日記』などの遺稿がある。
墓の形態、規模は稀なもので、亀の甲羅の上に棹石が乗っている。
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