旧江戸街道
- よみ
- きゅうえどかいどう
- 市指定年月日
- 昭和32年8月2日
- 所有者
- 高山市(市道)
- 管理者
- 山口史跡保存会
- 所在地
- 高山市山口町森下より水呑洞
- 時代
- 江戸時代から明治時代(17世紀から19世紀)
- 法量など
- 約6キロメートル
指定区域内に高札場、橋場、差手観音、雨乞平、幕の松、接待所跡、南無阿弥陀仏石、餅売場、比丘尼屋敷、峠観音などの旧跡がある。
解説
飛騨から野麦峠を越えて江戸へ通ずるこの街道は、江戸まで43次85里(約337キロメートル)で、山口は最初の宿場になっていた。このうち山口町森下から水呑洞までの約6キロメートルは古い街道の姿をよく残し、史跡に指定されている。
高山を出て最初の山越の美女峠は、もと益田郡と大野郡の堺で郡上堺、「ぐじょうげ」が変化して「びじょうげ」、美女峠と変わったと言われ、また、この峠に伝わる八百比丘尼の伝説からこう呼ばれるようになったのかもしれない。今この道は、車も通らず昔のままの静かな道で、四季の美しい眺望が楽しめる。
江戸街道は飛騨と信濃を結び、さらに鎌倉、江戸へ続く道として、国鉄高山本線が開通するまで、飛騨で最も重要な道の1つであった。また、山口町周辺には、鎌倉時代の古道があったらしく、「鎌倉街道」の地名が残っている。戦国時代、甲斐の武田氏が飛騨へ攻めに入ったときも、この道が使われた。
江戸時代は、この街道が歴史の上で、最も価値を持った時であった。金森氏、代官、郡代、そのほか公用の役人の往来のために、道の改修がおこなわれ、宿場には伝馬が置かれた。一般の人々の旅もようやく盛んになり、善光寺参りの通り道になった。江名子の荏名神社前にある道分灯籠に「左、江戸、ぜんかうじ」とあるのは、飛騨人がこの道に感じていたイメージをよく示している。物の移動も盛んだった。日本海でとれた魚は、塩漬けにして高山へ送られて来る。それから信州へ運ばれ、「飛騨ぶり」と呼ばれたのである。
明治になって飛騨は岐阜県に編入され、それまで江戸街道がもっていた「政治の中心につながる道」という性格は、ほとんどなくなってしまったが、しかし、糸挽女工が岡谷へ行くために通ったことがよく知られ、高山線開通まではやはり大切な道だった。そして今、この道の近くを通る国道361号線は整備され、高山から木曽谷へ出る道筋として再び価値が見直されている。
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