冨田礼彦墓

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ページ番号 T1000970  更新日  令和3年12月21日

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冨田礼彦墓の写真

よみ
とみたいやひこはか
市指定年月日
昭和30年8月25日
所有者
高山市
所在地
高山市上岡本町4丁目71番地
時代
明治時代(19世紀)
員数
1基ほか
法量など

墓は盛り土径1.5メートル、高さ0.9メートル

解説

 宇山越にある岡の北端を3段に区分し、厳白檮岡と呼ぶ。岡の下段から中段へ12段の石段をのぼる。前方に石の鳥居が立ち、1段高くした正面奥に土を盛り上げた小円墳がある。塚の前の墓標には長三洲筆「節斎冨田禮彦之墓」の文字が刻まれている。
 礼彦は初名定礼、通称稲太、節斎、白檮園と号した。父定微は、備中笠岡の国学者小寺清光の4男である。天保13年(1842)、32歳で地役人頭取に抜擢された。高山陣屋入口に現在も残る「天朝御用所」の立札は、明治元年(1868)2月に礼彦の謹書したものである。同年8月高山県判事に任命されたが、翌2年2月には梅村騒動が勃発した。礼彦は責を一身に負い、割腹して暴民の処刑を救おうとしたが、家人に発見され、一命をとりとめた。明治10年5月3日没、享年67。
 赤田章斎、田中大秀に学び、『斐太後風土記』、『運材図会』、『白檮園詩鈔』、『斐太三郡沿革史』、『白檀年表』など多数の著述を残した。

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