車田
- よみ
- くるまだ
- 県指定年月日
- 平成14年9月20日
- 所有者
- 車田保存協力会
- 所在地
- 高山市松之木町車田1775番地
- 員数
- 水田1枚、石碑
解説
金森重頼は、鷹狩の帰途車田に立ち寄り、当座の一首を詠んでいる。
見るも憂し植うるも苦し車田のめぐりめぐりて早苗取るかな
『飛州志』には、「田の広さ9間ばかり、稲苗1把を中央に置き、それより円く廻りて菅笠の縫目のように植える。里民は伊勢神宮の神供米を作ったというが、今は地元の神社に餅をつくってそなえる」とある。
文政8年(1825)秋、日下部道堅は建碑を思い立ち、田中大秀に碑文の執筆を依頼した。碑文は、車田を伊勢神宮の領地を記した『神鳳鈔』にいう飛騨国穴野御厨であるとし、故老の言を引用して、昔は環形の内に1年をかたどり12枚の小田が車輪のようにならんでいたので車田と名づけたと述べている。
現在の植え方は、田の中心に杭を打ち、中心から7本の線をだす。1株の苗を3本ずつとし、1本の線に5株植え、あとはその外側に円心円状に植える。下肥は決して使わない。
古い車田形式の植え方を今なお保存しているのは、ここと佐渡だけである。
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