冨田礼彦墓
- よみ
- とみたいやひこはか
- 市指定年月日
- 昭和30年8月25日
- 所有者
- 高山市
- 所在地
- 高山市上岡本町4丁目71番地
- 時代
- 明治時代(19世紀)
- 員数
- 1基ほか
- 法量など
-
墓(1基)盛り土径1.5メートル、高さ0.9メートル
解説
宇山越にある岡の北端を3段に区分し、厳白檮岡(いずかしのおか)と呼ぶ。岡の下段から中段へ12段の石段をのぼる。前方に石の鳥居が立ち、1段高くした正面奥に土を盛り上げた小円墳がある。塚の前の墓標には長三洲筆「節斎冨田禮彦之墓」の文字が刻まれている。
礼彦は初名定礼、通称稲太、節斎、白檮園(かしぞの)と号した。父定微(あきら)は、備中笠岡の国学者小寺清光の4男である。天保13年(1842年)32歳で地役人頭取に抜擢された。「天朝御用所」の建札は、明治元年(1868年)2月礼彦の謹書したものである。同年8月高山県判事に任命されたが、翌2年2月梅村騒動が勃発した。礼彦は責を一身に負い、割腹して暴民の処刑を救おうとしたが、家人に発見され、一命をとりとめた。明治10年5月3日没、享年67。
赤田章斎、田中大秀に学び、「斐太後風土記」「運材図会」「白檮園詩鈔」「斐太三郡沿革史」「白檀年表」など多数の著述を残した。
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