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垣内遺跡三ツ岩

ページ番号 T1000988  更新日  平成27年2月10日

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よみ
かいとういせきみついわ
市指定年月日
平成3年8月8日
所有者
木村博一
所在地
高山市上野町字垣内
時代
縄文時代中期から後期
員数
岩3個環状列石の1部
法量など

環状列石の1部 (岩3個AからC。BとCは岩本体のみ、岩Aは根元周囲の土地を含む)
岩A 高さ114、幅136、厚み47センチメートル
岩B 高さ108、幅75、厚み49センチメートル
岩C 高さ124、幅74、厚み55センチメートル

解説

垣内遺跡は通称「上野平(うわのだいら)」と呼ばれる高原にあり、面積360ヘクタール、標高652メートル、高山市街地沖積面との比高差は100メートルである。東に笠ヶ岳、槍ヶ岳、穂高岳、乗鞍岳、南に御岳、西に白山が眺望でき、大変見晴らしが良く、日照時間が長い。地形は単純な河岸段丘ではなく、基盤岩類の上に磯層が堆積し、その上を丹生川(にうかわ)火砕流が覆い、浸食期間をおいて上野泥流堆積物が平坦面をつくった。その上部を上宝(かみたから)火砕流堆積物や磯層が覆い、その上に火山灰が堆積をする。この火山灰は「赤土」「かま土」と呼ばれている。その上には「くろぼく」と呼ばれる真黒の腐敗土が堆積し、石がまったく混じらない。
この遺跡に昔からあった三ツ岩は、触れると祟(たた)られるという地元の伝承があった。江馬修は昭和9年、石の周辺を発掘調査し、土器を採取、また現存した3個の岩以外に7個以上の岩があったことを地元の土地所有者から聞き直径約30メートルの環状石垣として考察した。それに対して批判の論評もあったようだが、後世の研究者に課題と大きな期待を寄せた。
平成元年から2年度、圃場整備事業に先立ち高山市教育委員会が約5,000平方メートルの発掘調査を行なった。その結果、縄文時代中期後半の住居址が48基、後期後半が20基、その他7基が発見された。それらの配置を概観すると、中期後半の住居址群は中央の土壙群を中心に環状に配置され、後期前半の住居址も径を小さくしてほぼ同位置に環状に配されていることが確認された。しかし、出土した土器の状況から推察して、中期後半から後期前半への集落の継続性はみられず、ある程度の空白期間があったと思われる。
環状列石は、中央広場にある土壙群の外縁に沿って並んでいたことになる。岩の大部分は明治、あるいは昭和30年代に移動されてしまっているため、岩の裾付け状態が不明である。唯一移動されていない岩は、圃場整備区域から除外されて保存される事になり、裾付状況を知るための発掘は見合わせた。岩の南側近くからは棒状の自然磔と、軟質部がくぼんだ陽石が配石してあったのが注目される。その陽石を中心に放射状に配石がされていたとも思われ、課題を残している。
所属する時期については、縄文中期なのか後期なのかを推察するに、形態を各地の類例に比較してみると秋田県大湯環状列石(万座・野中堂遺跡・後期前葉)に近いものではないかと考えられる。本遺跡ではローム層の上に約30センチメートルの腐葉土(黒色土)を堆積しているが、原位置を保っているといわれる岩はローム層を大きく掘り込んだり、敷石の上に構築された様子はない。ローム層を掘り込んでいないということで時期が新しいということにはならない。また、古代から中世、近世にかけての祭祀遺跡としては遺物が伴出をしていない。江戸時代からの開墾で遺構の残存状況は決して良くはなかったが、広範囲の調査のために集落の大半を知ることができた。そして、土壙墓群と環状列石の位置は重要な関係にあると考えられる。
また、垣内遺跡の特色として、出土した土器は縄文中期後半と後期前半の時期ばかりで、他時期の土器が見られなかったことがあげられる。石鏃に縄文時代早期と思われるものが少しはある。時期が限られているために飛騨の土器編年、住居形態を知る上では大変参考になろう。また9.6×8.4メートルの大形住居や、2×3間の建物址が各1基、周壁に炭化した土止め板材が残る焼失住居址があった。さらに「作業小屋」「女性小屋」と推定されるような径が2.6から2.8メートルと小形の住居址も発見されている。
出土した土器は、住居入口に設けられた埋甕、屋外に設けられた埋甕、66点の土偶、65点のミニチュア土器、動物形土製品、三角とう形土製品、有孔円盤状土製品、彩色耳栓、匙形土製品などがある。土器の様式をみると、中期が唐草文系、曽利1.から4.式、後期は堀之内1.から2.、加曽利B式に比定される。良好な後期竪穴住居遺構から出土した土器の内、細い隆帯で曲線を描く土器は、飛騨の後期前半土器編年に大きな貢献をした。
出土した主な石器は、石鏃252、石錐66、磨製石斧303、打製石斧880、石錘270、磨石265、凹石228、石皿43、石棒20、玉類6、つまみ形石器(抉入掻器(えぐりいりそうき)の1種)33点がある。石鏃の石質は、下呂石が圧倒的に多くチャート、玉髄、黒曜石、貢岩の順で少量ずつみられ、飛騨地方の一般的な様相を示している。石棒は中期が1点で他は後期に属し、細身のものである。つまみ形石器は、35号大型住居址ピットから固まって出土したもので、矢の製作など共同作業に使われた可能性が高い。
これら出土した遺物は、風土記の丘学習センター(赤保木町)に保管、展示をしている。また、垣内遺跡の遺構は、大部分が圃場整備で削平されたが、遺跡南側の木村家、東側の梶井家敷地周辺は、まだ遺構が残存しているものと思われる。この垣内遺跡は、飛騨で有数の縄文集落であり、発掘調査により得られた成果は大きいものがある。

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