松倉城跡

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ページ番号 T1000964  更新日  令和7年8月18日

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よみ
まつくらじょうあと
国指定年月日
令和7年3月10日
所有者
高山市 ほか
所在地
高山市松倉町城山2059番地 ほか
時代
室町時代(16世紀後半)
法量など
55396平方メートル

解説

 松倉城跡は、高山市街地の南西に位置する松倉山(標高856.7メートル)の山頂に立地する。松倉山は、高山盆地周辺の山々に比べてひときわ高く、郡上、富山、長野、岐阜へ向かう各街道を見渡すことができる要衝の地である。江戸時代に書かれた地誌などでは、飛騨地方南部を支配した三木氏が高山盆地へ進出した際の拠点であり、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近の侵攻により落城したと伝えられる。
 松倉城跡は、飛騨地方では数少ない高い石垣のある城として知られている。本丸とその南西に伸びる三ノ丸には、長さ2メートルを超える巨石を用い、隅角部は算木積みを志向した高さ約5~8メートルの石垣が築かれる。本丸東に位置する二ノ丸には、南北に小型の石材を用いた低い石垣が、東端はほぼ中小石材による乱積みで、隅角部には大きな石を用いた2段の石垣が築かれている。石垣構造の違いなどから、低い石垣と竪堀や堀切などを用いて北側と東側を意識する遺構と、高石垣を築き西側と南側からの防御を意識する二系統の城郭遺構があり、二段階で築城された状況が考えられる。
 また、発掘調査により二ノ丸に2棟の礎石建物、三ノ丸に櫓台と埋門(うずみもん)が新たに発見された。埋門(うずみもん)は、4本の巨石を門柱の様に立て、その上に石を渡し通路には敷石を配したトンネル状の構造が推測される。この埋門(うずみもん)や出枡形虎口へ向かう通路は崩した石垣の石材で埋められて使用できなくなっており、城の機能を失わせる「破城」が行われたと考えられる。
 麓からの比高約270メートルの山頂に、本丸などの城中枢部を総石垣造りとする城跡は周辺地域で類例がなく、また土造りの城から石垣を持つ城、そして破城へという城の変遷を知る上での貴重な遺構が残る。戦国時代の飛騨地方を語るために重要な史跡である。

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電話:0577-35-3156 ファクス:0577-35-3172
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