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田中大秀墓

ページ番号 T1000959  更新日  平成27年2月10日

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よみ
たなかおおひではか
県指定年月日
昭和31年2月24日
管理者
荏名古史跡保存会
所在地
高山市江名子町上使畑2115番地
員数
300平方メートル
墓(1基)盛り土径3.3メートル、高さ1.9メートル

解説

荏名神社から1キロメートル南方に大きな松樹の生い茂る小丘がある。大秀が生前松室岡(むろまつおか)と名づけ、墓所と定めたところである。曲折した参道をのぼると、芳賀矢一撰文「田中翁贈位記念碑」の立つ広場に出る。3段の石段をのぼり、切石道を進む。左右に春日燈籠1対を並べ、正面に大秀好みの、みやびた標碑が立っている。「田中大秀之奥城」と刻まれた文字は、大秀の筆跡である。大秀の遺体は、標碑の後ろの小円墳に葬られている。
標碑の銘
正面 田中大秀之奥城
右側面 齢六十二に成ける天保九年戊戌九月十日ここを墓所にさだめ松室岡と名づけて
荏野翁
    今日よりは我まつむろに蔭しめてちよのみどりを友とたのまむ
左側面 大人の歌を聞て言ほぎけらく
    いまよりは千代のあるじと松枝のあせぬ翠の色にあえませ
    又後世人にいはまほしくてよめる
    こころあらば植はそふとも我大人のしめいます
    木立きりなあらしそ
山崎弘泰
背面 弘化四年丁末九月十六日歿
   嘉永三年庚戌九月
田中弥兵衛寿豊建
大秀は、安永6年(1777年)8月15日高山一之町薬種商弥兵衛博道の2男に生まれたが、兄休明(よしあきら)の夭折(ようせつ)(若死)により家督を相続した。初名紀文、粟田知周・伴蒿蹊(こうけい)・本居宣年等に師事し、家号を湯津香木園(ゆつかつらぞの)と名づけた。文化15年(1815年)隠居の後、自ら再興した荏名神社の傍らに隠棲し、荏野(えな)翁と称して国学の研究と門弟の指導に専念した。弘化4年(1847年)9月16日没、享年71、法号松室了郭居士。「養老美泉弁註」「竹取翁物語解」「落窪物語解」「土佐日記解」「蜻蛉日記紀行解」「荏野冊子」等の著述がある。

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