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赤田臥牛墓

ページ番号 T1000960  更新日  平成27年2月10日

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よみ
あかだがぎゅうはか
県指定年月日
昭和31年2月24日
所有者
赤田家
所在地
高山市愛宕町3174番地 大雄寺裏墓地
時代
江戸時代(19世紀)
員数
16.5平方メートル
法量など

墓(1箇所)環石径9センチメートル、盛り土径91センチメートル、高さ30センチメートル

解説

東山大雄寺墓地に赤田家の墳墓がある。東西3.6メートル、南北5.5メートルの墓域内に石塔3、古墳4が配置されているが、臥牛墳は入口に最も近く、中央に位置し、右に先霊、左に誠軒(嫡孫)、後ろに章斎(嫡子)の墳墓がある。各墳とも同大で、環石を設け、中に盛り土がしてある。誠軒の遺骸は大正15年小糸坂からここに移された。章斎墳の右横に修墓の際建てられた標碑がある。東山大雄寺墓地に赤田家の墳墓がある。東西3.6メートル、南北5.5メートルの墓域内に石塔3、古墳4が配置されているが、臥牛墳は入口に最も近く、中央に位置し、右に先霊、左に誠軒(嫡孫)、後ろに章斎(嫡子)の墳墓がある。各墳とも同大で、環石を設け、中に盛り土がしてある。誠軒の遺骸は大正15年小糸坂からここに移された。章斎墳の右横に修墓の際建てられた標碑がある。
臥牛は名元義、通称新助と呼んだ。
臥牛はその号である。幼少より学問に志し、長じて江村北海の門に入り、最も物徂徠(ぶっそらい)の学風を好んだ。代々一之町に住み醸酒を業としたが、文化2年(1805年)官許を得て邸内に家塾静修館を開き、始めて釈奠(せきてん)を行なった。文政5年(1822年)7月22日没、享年76、法名浄彰。
『臥牛集初編』10巻は、文政10年津野廷賢により刊行された。

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