二木長嘯収集石器類 附神代石図、ニ木長嘯・木内石亭書状

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ページ番号 T1000907  更新日  令和3年12月20日

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よみ
にきちょうしょうしゅうしゅうせっきるい つけたりじんだいせきず、にきちょうしょう・きのうちせきていしょじょう
国指定年月日
昭和62年6月6日
時代
縄文時代から古墳時代
員数
石器類50個、神代石図1巻、書状52通

解説

 二木長嘯は飛騨高山の生まれ。名は俊恭、字は子敬。文化11年(1813年)に享年60で没した。飛騨高山の漢学者、赤田臥牛を師として漢詩を学び、広く諸名家とも交渉した。特に明和8年(1771)以降、各地の弄石家との交流を続け、神代石収集家として名を成した。その中でも特に、近江の木内石亭と親交を持ち、その様子は神代石の製作や用途問題を論じた寛政4年(1792)の書状や、長嘯の神代石収集を「海内一」と称揚した石亭からの書状などに窺える。
 いま、長嘯の集めた石器と伝えられるものは数百点に及ぶが、中には信頼性に乏しいものもある。しかし、長嘯が各地を訪れて私蔵の石器類を披瀝した、懐中持ち用の『神代石図』1巻に描いた石器類は、長嘯収集品として確実視できる。本件はこの図巻に描かれた62個の石器類のうち、現存伝存するもの50個である。
 石器類は石棒、石冠、片側に猪首形の陽刻がある石棒、硬玉大珠などである。いずれも中部、北陸地方における縄文時代の石器類の中でも、特殊な用途に用いられたものが多く、長嘯の神代石に対する興味の一端がよく表れている。
 木内石亭など、江戸時代の著名な弄石家の収集品がほとんど散逸してしまっている現状のなかで、当時、神代石として珍重された石器類がまとまって存在する例は稀有であり、わが国の黎明期の考古学を考える上で貴重な事例である。
 なお、木内石亭書状、長嘯自筆書状などは、長嘯の事蹟をみるうえに重要なものであり、『神代石図』1巻とともに附指定された。また、以上のほか長嘯収集と伝える多数の石器類、図巻類なども現存している。

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