伝秀文筆水墨人物図

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ページ番号 T1000900  更新日  令和3年12月20日

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よみ
でんしゅうぶんひつすいぼくじんぶつず
市指定年月日
昭和51年3月19日
所有者
高山市
時代
室町時代(16世紀)
員数
1双
法量など
紙本縦170センチメートル、横320センチメートル

解説

 秀文は古くは相国寺の画僧周文と混同されたことがあり、作品も少なく、わずかに残る作品にも無落款のものが多い。また大陸から渡来した画人として名は知られていたが、明か朝鮮かその出身地もはっきりとしていない。そういった状況から、これまで多くの議論がなされ、今日でもまだ不明な点が多い。しかしその画風には朝鮮画の特色が現われており、今では朝鮮出身で、15世紀前半頃の人と推定されている。特に山水を能くし、そのほか人物、野馬、龍虎なども描いている。
 秀文は、はじめ越前の朝倉氏に仕え、その家臣曽我氏を嗣いだという。後に戦乱を避け飛騨へ入り、白川郷の中野照蓮寺に身を寄せたといい、江戸時代にはその作品が残っていたという記録がある。のちに高山盆地南方の石浦村字坂口の地に移り、その地で没したと伝わる。『斐太後風土記』によると、秀文宅跡に住した人の家に、秀文所持の筆、硯、水滴、書鎮、石印、肉池などの遺品が残っていたという。現在その住宅跡の裏手には自然石の墓があり、付近には秀文を祀った曽我神社や、秀文硯の水(場)がある。神社では毎年9月に祭礼が行なわれ、石浦の速入寺には秀文先生碑が建っている。
 秀文の遺墨と見られる中で屏風は少ない。両隻の端に大樹を置き、樹枝を内側に伸張させながら中央部には各扇1人ないし、2人の老士を配置するという「香山九老図」の構成である。白川郷中野照連寺の襖絵であったと伝わり、1500年頃より後のものといわれる。

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