村半|旧村田邸とは

ページ番号 T1012213  更新日  令和2年11月24日

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旧村田邸の概要

昔の村田邸の写真

 これは地域の方のお宅に残っていた貴重な写真をお借りしたものです。映されているのは戦後まもなくと思われる「旧村田邸」の姿で、80年近くタイムスリップする計算になりますが、現在の姿と驚くほど変わらないことをご覧いただけるかと思います。
 さらに60年ほどさかのぼり、明治8(1875)年に建てられた建築物であることが分かっていますが、140年以上も前に建てられた木造建築物が、ほぼそのままの姿で現在に残っているのは、とても多くの人々がこの町家に様々な形で関わり、大切に思って、保全継承する努力を積み重ねてきたからに他なりません。
 それらの歴史の延長線上にあることを忘れず、「過去」から受け継いだ貴重な地域資源として、「未来」を担う若者たちに「護り伝えてきた人々の想い」とともに継承していくことが、「村半」のテーマであり、「旧村田邸」をお預かりした高山市の使命でもあります。

 このページでは「旧村田邸」のガイドブックとして、昔の人々の暮らしぶりの痕跡や見どころなどを紹介します。

正面・外観

外観写真

◆長大な間口
 間口(建物の通りに面した長さ)は約25mで、国指定重要文化財の吉島家や日下部家とほぼ同規模、通常の町家の3軒分もある豪放なたたずまいを見せ、「旦那衆」と呼ばれる豪商の繁栄を偲ばせます。

◆弁柄(べんがら)
 ひときわ目を引く建物の朱色は、弁柄(酸化鉄を主原料とした塗料)を亜麻仁油で溶き塗布したもので、炭などを混ぜず、当時のままを復元したものです。年月を重ねることで、落ち着いた風合いに変化していきます。衣類等に色が付く可能性がありますので、触ったり、寄り掛かったりしないよう注意ください。

◆胡粉(ごふん)
 腕木木口を白く染める胡粉(貝殻を焼いて作った塗料)は、腐食を防止するため、庶民が良材を使えなかった時代に材の種類をわからなくするためなど諸説ありますが、建物の朱色、前庭の瀝青(ちゃん)塗りの塀の黒色とのコントラストが際立っています。

伝統的建造物の札

◆伝統的建造物
 主屋の大戸の上に掲げられている木札は、国によって特定されている伝統的建造物の証で、主屋(本棟)、主屋(別棟)、まゆ倉庫のものです。土蔵3棟もそれぞれ登録されており、土蔵の戸の部分に掲げています。
 市の「景観重要建造物」にも指定されており、前庭の横のポストの近くに標章を掲げています。

 表札(右の写真の白い板)を上にスライドすると、改修前の「旧村田邸」の壁面を見ることができますが、改修前から炭がほぼ混ざらない弁柄(べんがら)塗りだったことの分かる痕跡として残したものです。

格子戸、風知草

◆格子戸(こうしど)
 今では飛騨高山(古い町並)の町家のシンボルのようになっていますが、明治・大正期、ミセの間やコミセで商売が盛んに行われていた時には無かったもので、近代となり、商いをやめ住居となった時に分かるように後から付けられたものです。

◆風知草(ふうちそう)
 地元の高校(飛騨高山高校山田キャンパス)の生徒に作ってもらったプランターを並べています。古い町並に若い緑色が映えて、爽やかな風を感じさせます。

まゆ倉庫

大会議室

◆吹き抜けの大空間
 建てられた時は通常の町家でしたが、主屋とともに村田半六の手に渡り、壁や床の大部分が取り外されるなど吹き抜けの大空間に改造され、「高山まゆ市場」として製糸・養蚕業に利用されました。周辺の集落から生糸の原料となる繭玉を集め、しっかりと洗浄・乾燥させて品質を高めるなど、飛騨地方の養蚕業の発展に寄与した場所でもあります。

 今回の改修に際しては、中庭へ抜けられる「通り土間」を確保しつつ、防音や断熱のため内部に大会議室を造作しています。太い梁や柱のほか、貫(ぬき)と呼ばれる水平方向の材を土壁の名残として残したり、エアコンを南端の梁状の構造物に擬態して隠したり、蛍光灯のようなLEDライトで照度を確保するなど、随所にこだわった整備を行いました。

◆手筒花火
 轟音のなか、火の粉を全身に浴びながら打ち上げる、勇壮な花火です。厄(やく)落としとして、毎年8月9日に宮川河畔を彩る、飛騨高山の夏の風物詩です。

手筒花火、絵馬

◆絵馬
 家内安全や商売繁盛などを祈願する縁起物で、家の入口に、馬が駆け込んでいくように掲げます。
 高山城主「金森頼直」の愛馬「山桜」が葬られた松倉山の馬頭観世音に、毎年8月紙絵馬を奉納したのが由来で、現在でも毎年8月上旬、本町2丁目の山桜神社ほかで「絵馬市」が開かれています。

◆主屋2階へつながる戸
 絵馬の上に、不思議な戸があるのに気が付きましたか?
 この戸は、大正6年からまゆ倉庫が「高山まゆ市場」として養蚕業に使用された際、主屋の2階が「まゆの乾燥場」となっており、滑車を使うなどして物資を行き来させていた名残りです。

主屋(台所を除く)

主屋 平面図

 右図に記した点線の左側部分が、明治8年に建てられた主屋(本棟)です。

 点線の右側部分は明治・大正期に増築された主屋(別棟)で、2階の天井高の低い(中二階建ての)本棟に対し、別棟は天井高のある(本二階建ての)新しい建築様式となっており、1階の内側からでも構造による建築年代の違いがよく見てとれます。

 今回の改修整備においても、主屋は歴史的価値の保存を重視しており、ガラスサッシをはめ込み気密性を高めるなどの快適性の向上などは行わず、耐震性を高めるための耐力壁の設置等についても、文化財的価値を損なわない範囲に留めました。
 このため、大きな加重をかけるのを避ける必要があることなどから、主屋の2階は一般開放せず立入禁止としています。

 以下、(1)から(10)の解説は、右図の概ねの場所を示しています。

大火の古絵図

◆明治8年大火
 瓦やトタン等が普及する以前、町家の屋根は、木の板を風などで飛ばないよう置石で押さえてあるクレ葺き置石屋根という形式で、ひとたび火事が起これば、延焼して周囲を巻き込む大火事となりました。

 このような大火は、場所や規模を変え、幾度も起こってきましたが、旧村田邸を巻き込んだ大火は、最後は明治8年4月24日にあったと記録されています。
 ※左図の最も広いエリアを焼失させた火事で、青色★印が旧村田邸の位置です。

 なお、土蔵は炎に耐えて燃え残るため、防火帯として災の燃え広がりを防ぐ位置に建てられ、財産を守るものとして非常に大事にされました。

墨書き

◆(1)墨書き
 大火による建物の消失後、現在に残る主屋を再建したのは、地域の旦那衆のうちの一軒「池戸屋」であり、主屋の大戸の裏側には、右の写真のとおり、「明治8年8月新調 高山二之町四丁目 池戸 蔵六 具」とある墨書きを見ることができます。4月末の大火後、わずか数か月間で再建しているのも驚くべきことで、財力があったことの裏付けでもあります。

 地元の屋台組「鳩峯車組」に残る古文書によると、村田家がこの建物で暮らす、あるいは所有するようになったのは明治20年から23年にかけてとされます。この施設の愛称としても採用させていただいた「村半」は、当時の村田家当主「村田 半六」の名にちなんだ屋号として使われていたものです。
 村田 半六は、製紙・製板・林業などの実業家として財を成し、高山町の高額所得者名簿に名を遺すほど繁栄する一方で、町へ20台もの消火用ポンプを寄贈するなど、「実業家の模範人」と称される志の高い人物であったことが記録に残されています。

蔀戸

◆(2)ミセの間の蔀戸(しとみど)
 通常は事務室(スタッフルーム)として使用しているため、見ていただけないかもしれませんが、縦に3枚の雨戸のような板が下りてくる「蔀戸」が残っています。使用できる状態で残っている蔀戸は、飛騨高山の町家でもとても珍しいです。
 言わば昔の「シャッター」で、対面で商売をしている日中は3枚とも開けるか1番下だけ残して開け、閉店する夜には3枚とも戸締りするといった使い方をされました。
 (外観にも記しましたが、この外側にある格子戸は、商売を止めた証に後から付けられたものです。)

囲炉裏

◆(3)囲炉裏
 昔話の世界に入りこんだような和の空間です。家族がそれぞれの「箱膳」を持ち寄り、囲炉裏を囲んで一緒に食事をとった団らんのスペースでもありました。

 この地域に電気が通ったのは明治37年頃です。電気がない時代に建てられた建物のため、自然光をできるだけ多く室内に取り入れるように各所が作られており、煙で黒くいぶされた梁の小屋組みを透かして、明かり取りの天窓から柔らかな自然光が差し込み、これぞ伝統建築といった雰囲気を感じさせます。

前庭

◆(4)建具(障子戸)
桟(縦横の木)が組子状に細工され、足元では縦の間隔を狭くするなど何気なく意匠がが凝らされています。茶室などの障子戸も同様ですので、近くでご覧になってみてください。
障子紙は地元の手漉きの「山中和紙」により、2~3mm重ねて貼られた「継ぎ貼り(レンガ積み)」で当時のまま復元されています。

◆(5)前庭の切り抜き戸
前庭の塀の中央に設けた「切り抜き戸」は、大切なお客様を日常の生活空間である「ケ」の場を通らず、非日常「ハレ」の場(本座敷)へご案内するために設けられたもので、痕跡をもとに復元しました。
前庭の大きな木は「イチイ」で、飛騨高山の伝統的工芸品「一位一刀彫」の原材料となるほか、天皇陛下が即位される際に手にする笏(しゃく)に使用されるなど、非常に良質な材として知られています。高山市及び岐阜県のシンボルツリーでもあります。

茶室

◆(6)茶室
通りに面して一番北に位置します。広さは4畳半ですが、借家人がここで歯医者を営んでいた時期もあるとのことです。
丸い床柱が畳に接する箇所、削り面が上向きの三角となるよう平らに削ってある部分を「筍面(たけのこめん)」と言います。まっすぐ伸びる筍は、家の繁栄を願った縁起物でもあります。

主屋において共通ですが、畳の縁は幅が細いものを再現しており、空間を広く見せる効果があります。

電柱・電線モチーフの欄間

◆(7)電柱、電線がモチーフの欄間
電線につばめがとまっている様子が描かれた欄間です。
この地域には、明治37年頃に電気が通りましたが、それ以前は自然光のほか、油に灯をともすなどして暮らしてきた生活に、電気の登場は当時の人々に非常に大きなインパクトを与えたものと考えられます。
現在では景観の向上等のため地下埋設を進めているような電柱や電線です(村半の前面道路も同様です)が、モダンな生活の象徴として、欄間のモチーフとして取り上げられたような時代であったことが分かります。

なお、碍子(がいし。電線を絶縁し固定する陶磁器製の器具)引きの電気配線を、主屋のトイレのある部屋の天井付近に残してあります。

本座敷

◆(8)本座敷
書院造りの15畳の大広間で、節目の行事に使用したり、大切なお客様を接待するなど、他の部屋とは別格に扱われます。
床柱や天井など良材が随所に使われるなど、華美でないなかにも非常に繊細に造られており、和紙貼りの壁(紙床。かみどこ)の意匠は、旧村田邸に訪れた民芸運動の主導者「柳宗悦」も称賛したとの逸話が残っています。
中庭に面した障子戸を開くと、四季折々の日本庭園の風情が感じられます。

つぼつぼ

◆(9)ふすまの引き手
何気なく見過ごしてしまいそうですが、ふすまの引き手には、それぞれデザインが施されてあり、右の写真は、茶道の道具にもあしらわれている「つぼつぼ」です。
他のふすまの引き手は、どのようになっているか、是非自身の目で確かめてください。

◆(10)飛騨春慶テーブル
旧村田邸に残されていた古い「長持」(ながもち。衣類等を保管する家具)を、伝統技術を活かして現代的なテーブルにリメイクしました。下の写真の左が、南庭園の井戸近くに置いてあった時の状態です。
高山祭の屋台修理も手掛ける本物の職人たちに腕をふるってもらい、「木地師(きじし)」が構造体を修理・研磨し、「塗師(ぬし)」が飛騨春慶の塗りを施し、「鍛冶屋(かじや)」が金具を修理・製作した飛騨高山の誇る総合芸術です。
余談ですが、金具に小さな「逆ハートマーク」が見つけられたら、それは「猪目(いのめ)」と呼ばれる火よけ、魔よけの意味のある日本古来のマークです。

村半の各所の灯かり(照明器具)の多くは、市内の木工事業者の製作したものですが、この座敷の間では、飛騨春慶テーブルに合わせて、特別に既製品を飛騨春慶で仕上げてもらったペンダントライトを設置しています。

飛騨春慶つづらテーブル

高校生家具

◆(11)高校生家具
令和2年11月、地元の高山工業高校の建築インテリア技術部の生徒さんに製作いただいた椅子を設置しました。

高さのあるガラステーブルに合わせて座面を高くしたほか、足元には荷物などを置ける千鳥格子がはまり、座る部分は畳状になっているためとても座り心地が良いです。
飛騨春慶のガラステーブルやライトにマッチするよう、村半の外壁に近い、朱色に染め上げています。

ものづくりの道を志す地元の若者が、長い時間をかけ、想いを込めて製作された「大切なもの」が、村半にまた一つ増えました。

主屋(台所)

台所

改修前から台所はこの位置にあり、レトロ感が漂いながらも、現代的に使いやすいキッチンとしてリフォームしました。井戸ももともとあったもので、アースカラーのモザイクタイルと手押しポンプが強く印象付けます。井戸水の水質検査は毎年行っており、問題ない水準ですが、飲用は避けてください。

実際に煮炊きのできるかまどを復元しましたが、かまど炊きご飯を皆で食べるイベントなども計画したいと考えています。かまど上部の中庭に面した建具は、有志の方から寄贈を受けた「吹きガラス」と呼ばれる近代に作られたガラスを設置しています。気泡が入っていたり、厚みが均一でないなど手作業で作られたガラスの風合いを感じることができます。(このような「吹きガラス」は、台所以外にも主屋のなかに当時のまま残っていますので、探してみてください)

南庭園

多目的トイレ

◆多目的トイレ
湯殿(風呂)だった建屋をそのまま活かして、多目的トイレとしてリフォームしました。
写真中央(下部)に見えているのは、風呂のお湯を火を焚いて沸かすためのマキを入れた口です。内部の洋式便座に腰かけると正面に見えるモルタルに円形の穴が開いていますが、煙突が通って外へ抜けていた痕跡(写真の中央の窓状の四角が外側)で、今回の改修でもあえて残したものです。

井戸

◆井戸
外の井戸です。台所の井戸と同じくレトロなポンプで、地下水を汲み上げることができます。どなたでも自由に使っていただくことができますので、試してみてください。ただし、冬期は凍結防止のため、使用を停止します。
多少、水はねがありますので、足元が濡れないようご注意ください。
水質検査を毎年行っており、問題ない水準ですが、飲用は避けてください。

関連して、今回の改修工事で、まゆ倉庫の床下に隠されていた第3の井戸が発見され、大変驚かされましたが、残念ながら位置的に活用が難しかったことと、建物の保安上、地鎮祭を行い作法にのっとって埋設しました。

◆授乳室
井戸の奥は「授乳室」として確保しているスペースです。
電気ポットでミルク用のお湯を沸かすことができるほか、着替えなどもしていただけます。
村半全体に言えることですが、ゴミは持ち帰っていただき、次の方が気持ち良く使えるよう、使った後はきれいにしてその場を離れていただくようお願いします。

北庭園

北庭園

季節感や癒しを感じられる日本庭園です。主屋の中に、光や風を取り込むための余裕空間でもあります。本座敷から眺めるのも良いですが、実際に庭に立つとまた違った印象を受けます。

主屋の縁側のほか、周囲にはベンチを並べてありますので、腰を下ろして自然の光や風を感じながら、ゆっくりとくつろいでいってください。

灯かりのともる石灯籠、大八車の車輪など、素敵な写真をSNSにアップしてください。#MURAHAN
北蔵前に設置している白い番傘は、雨が降っている時を除いて自由に使っていただき、使用後はあった所に戻してください。

石柱

◆石柱
「村田」の文字が彫られた石柱で、6番地の「六」が入ったものなど、いくつかあります。
いずれも改修前の旧村田邸に残されていたもので、表通りに面する場所等に設置してあった時期があったのでしょう。旧村田邸とともに、長い歴史を重ねてきた石柱です。

北蔵

ムロ

◆ムロ
北蔵入口の前にあるのはムロ(室)です。
木蓋は開けられませんが、地下は深さ1m程の直方体の空間となっており、電気のない時代、温度が比較的一定の地下に、食料等が保存されました。
言ってみれば、昔の「冷蔵庫」です。

中央蔵

炭俵

◆炭俵(すみだわら)
中央蔵に入ってすぐ左側のスペースに、旧村田邸に残っていた炭俵や民具の一部を保存・展示しています。
電気やガスの無い時代、木炭は暖をとったり、煮炊きをしたり、便利な燃料として多用されました。改修前の旧村田邸は、南蔵1階は土間となっていて、農機具などとともに10近くの炭俵が残されていました。

南蔵と呼ぶようにしたのは、高山市が改修してから分かりやすくするためで、もともとは「炭蔵」や「漬け物蔵」と呼ばれていたそうです。
同じように中央蔵は、「通り土間」からまっすぐ正面に見えますので「見付蔵」、北蔵は、重要な文書や金品を保管するため「文庫蔵」と呼ばれていました。

南蔵

高校生家具

◆1階 高校生家具
木製家具は、地元の高山工業高校の建築インテリア技術部の生徒さんに製作いただいたものです。
小さめの机は、組み合わせて様々なレイアウトに変えられるようにし、カウンターを設けることで空間に変化を付けています。
ものづくりの道を志す高校生たちが、現場見学に来てイメージを膨らますなど、心を込めて作ってくれました。
このような地元高校生とのコラボレーションは、今後も沢山行っていきたいと考えています。

しけ絹3連スクリーン

◆2階 しけ絹3連スクリーン
令和1年7月、村半の整備事業の広報誌を見て、村田半六の血縁者という大工さんが「何か手伝えないか」と市役所に訪ねてきてくださったことに始まります。
天井の低い南蔵のパーテーションを探している所でしたが既製品では良いものが見当たらず、昔ながらの製法でまゆから布(城端しけ絹)を織っている会社があることを知り、素材として絹を譲っていただき、村半縁者の大工さんに木枠を作っていただくこととしたものです。
布を織ってみえる会社では、昔は飛騨地方からまゆを仕入れることもあったとのことで、時代を超え、生糸の結ぶ縁が、人と人とを引き合わせたのかもしれないと感じました。

養蚕業(まゆ)にゆかりの深い建物にぴったりの、とても素敵なスクリーンが出来ました。

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