飛騨の里建造物

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ページ番号 T1000931  更新日  令和3年12月21日

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よみ
ひだのさとけんぞうぶつ
市指定年月日
昭和47年9月18日
所有者
高山市
所在地
高山市上岡本町1丁目590番地
時代
江戸時代から明治時代
員数
15棟
法量など
八月一日家、永田家、日下部家、立保神社拝殿舞台、ハサ小屋、わらび粉小屋、バッタリ小屋(唐臼)、匠堂、木挽小屋、杣小屋、西永家、直井家、小林家、苅安家、紺谷家

解説

 豪雪に耐える構造的合理性と、山村の景観を高める美的感覚をもった豪壮な合掌家屋。長い冬ごもりに備えた温かさをもつ北飛騨の民家。解放感を民家の造りに具像化させた南飛騨の民家など、それぞれの土地に合った個性をもつ特色ある民家を造り上げたのも飛騨の匠である。
 飛騨には古くから「尾崎、洞口、宮の前に家を建てるな」という諺がある。尾崎は山の尾の突出部、洞口は洞の入口で山崩れや水害の恐れのある所であり、宮の前は神社や寺などの神聖な場所とされた。9割が山という飛騨の国ならではの長い間の経験がこんな諺を生み出したのである。風の強い所、雨の多い所、雪の深い所など人々はそれに対応して耐えうる家を造ってきた。
 これらの民家は、気候や風俗、習慣、宗教、近くで入手しやすい建築材などの結集した造型であって、飛騨の里建造物は、狭い飛騨一国の中でさえこれだけの様式手法の異なった民家があったことを物語る、貴重な民家の集落である。

八月一日家

 旧大野郡荘川村大字三尾河にあったもので、桁行13.2メートル、奥行9.1メートル、茅葺入母屋両妻にホテ窓がつく。西願寺庫裡として江戸時代末期に建てられた。
 八月一日と書いて「ほずみ」と読む変わった名字は、旧暦の8月1日頃に稲穂を摘む、または刈り取った稲穂を積んだことにちなむといわれている。

永田家

 高山市漆垣内町にあった。桁行12.0メートル、梁行8.3メートル、切妻板葺、石置屋根の建物で、飛騨の里では休憩所として使用されている。

日下部家

 大野郡白川村大字御母衣にあったもので、桁行9.3メートル、梁行5.6メートル、茅葺切妻合掌造りの民家では1番小形で、飛騨の里では管理事務所に使用している。

立保神社拝殿舞台

 旧吉城郡河合村大字保にあったもので、立保神社は同地区の産土社である。鈿女、白山、国作大神社の3社を合祀した神社で、3社の拝殿を集めて建てられていた。2つを上下に並べ、上を拝殿、下を舞台、もう1つを神饌殿とされていたものを、民俗村へ移築した際、拝殿と舞台は元の形に、神饌殿は楽屋として花道でつなげた。

ハサ小屋

 大野郡白川村大字長瀬にあったもので、日照時間が少なく秋から冬への移行が早い白川村北部では、稲や稗は刈取るとハサ小屋にかけて乾燥させた。内部は作業所、物置に使用した。桁行7.5メートル、梁行6メートル。

わらび粉小屋

 旧大野郡高根村大字中洞にあったもので、子ノ原高原から落ちる水を利用して水車を廻した。わらび粉の採収期には、この小屋へ移住して作業をした。桁行7.6メートル、梁行5.8メートル。

バッタリ小屋、唐臼

 旧大野郡荘川村大字三尾河にあった。天秤を応用した唐臼で、米や稗を精白した。

匠堂

 旧吉城郡河合村から鈿女神社本殿を、覆殿は宮川村加賀沢の白山神社から移築したものである。

木挽小屋

 材木を鋸で挽き、板材を作る作業をした木挽が、深山で仮住まいした小屋。屋根続きにリン場小屋を造り、内で作業した。

杣小屋

 山中で木材の伐採、加工の仕事に従事した杣が集団生活をする為に設けた小屋。期間中はほとんど自宅へは帰らなかった。

工芸集落

 旧久々野町渚にあった西永家、高山市本母町の直井家、旧古川町大野の小林家、旧丹生川町町方の苅安家、旧河合村船原の紺谷家

飛騨民俗村の歩み

 昭和34年、旧荘川村にあった若山家を移築し、同年7月14日、飛騨民俗館を開館した。昭和35年12月22日、博物館相当施設の指定を受け、その後野首家、郷倉、高山測候所などを移築して充実をはかった。
 昭和44年、飛騨民俗館から約600メートル離れた松倉城跡山麓に民家30数棟を移築復元、昭和46年7月1日「飛騨の里」として開館した。

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