高山祭屋台

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号 T1000916  更新日  令和3年12月20日

印刷 大きな文字で印刷

よみ
たかやままつりやたい
国指定年月日
昭和35年6月9日
所有者
各屋台組、管理団体高山市
所在地
各屋台蔵
時代
江戸時代(18世紀)
員数
23基
備考

毎年4月14、15日に開催される日枝神社例祭、通称春の高山祭には12基、10月9、10日に開催される桜山八幡宮例祭、通称秋の高山祭には11基の屋台が曳き出される。祭礼行事は、国の無形民俗文化財に指定されている。

日本遺産構成文化財

日枝神社例祭に曳き出される屋台

神楽台(上一之町)屋台行列の先頭で囃子を奏す
三番叟(上一之町)三番叟のからくり
麒麟台(上一之町)谷口与鹿の彫刻など、絢爛豪華
石橋台(上二之町、神明町)美女が獅子に変化するからくり
五台山(上二之町)彫刻、刺繍幕、見送幕などが見事
鳳凰台(上二之町)3色の胴幕。堅牢で技巧的
恵比須台(上三之町)純金鍍金の金具、与鹿の彫刻
龍神台(上三之町)謡曲竹生島とともに演じられる龍神のからくり
崑崗台(片原町)台名は中国の金の産地にちなむ
琴高台(本町1丁目)鯉づくしの意匠
大国台(上川原町)屋根柱に鶯張りの工夫をする
青龍台(川原町)天守閣風の屋根、3層の台形

桜山八幡宮例祭で曳き出される屋台

神楽台(八幡町、桜町)屋台行列の先頭で囃子を奏す
布袋台(下一之町)布袋と唐子のからくり
金鳳台(下一之町)神功皇后と武内宿禰の人形
大八台(下一之町)三輪の構造、御殿風の屋台
鳩峯車(下二之町)三輪の屋台、綴錦織幕が優れる
神馬台(下二之町)神馬と馬丁の人形
仙人台(下三之町)唐破風の屋根など、古風である
行神台(下三之町)役行者を祭神とする
宝珠台(下三之町)屋根上の大亀が特徴的
豊明台(大新町1丁目)御所車、彫刻など多様な装飾
鳳凰台(大新町1、2、3丁目)谷越獅子の彫刻など気品のある屋台

神楽台 上一之町上組

沿革 古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木の枠に太鼓を吊って2人でかついだものであった。文化年間(1804年から1818年)に4輪の屋台形にし、嘉永7年(1854)の大改修により現台形となった。明治26年(1893)改修。その後数度の改修をする。
嘉永改修 工匠 谷口延儔 彫刻 谷口与鹿
明治改修 工匠 村山民次郎 塗師 田近宇之助 金具 井上芳之助
構造 屋根無 太鼓昇降 4輪外御所車
特色 祭礼に際しては、侍烏帽子、素襖姿の5人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行する。曲は「場ならし」、「高い山」など多数あり、場所により使い分ける。嘉永の改修のとき、金具に1坪(約9平方センチメートル)あたり1匁(4グラム)の純金が使用された。

三番叟 上一之町中組

沿革 宝暦年間(1751年から1764年)の創建で、台名は「恩雀」、天明年間(1781年から1789年)に翁操りを取り入れ「翁台」と改銘、文化3年(1806)に雛鶴三番叟の謡曲による操り人形に替え、台名も三番叟となる。天保8年(1837)、現在の台形に改造され、大正7年と昭和41年に大修理を行なう。
天保改造 工匠 牧野屋忠三郎 彦三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 25条の細綱で操るからくりがある。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関樋の先端へ移行した聯台上の扇子と鈴を持ち、面箱に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲「浦島」に和して仕舞を演ずるという構成である。屋台曳行順のくじは、必ず一番を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっている。

麒麟台 上一之町下組

沿革 創建年代未詳。天明4年(1784)の火災で焼失し、再建されたものが文化3年(1806)の記録に「鉄輪」の名でみえる。翌文化4年「よしの静」と改名し、文化10年(1813)、以前から組内に金森家から拝領した麒麟の香炉を保管していたことにより、「麒麟台」と改名した。弘化2年(1845)大改修、大正10年改修。昭和46年修理。
弘化改修 工匠 中川吉兵衛 彫刻 下段唐子 谷口与鹿 牡丹 中川吉兵衛 塗師 輪島屋藤兵衛
大正改修 工匠 彫刻 村山群鳳 塗師 田近卯之助
構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 台名の示す通り、屋根飾りとして一対の麒麟を載せ、中段、上段の上部の木鼻の彫刻も麒麟の意匠となっている。下段の唐子群遊彫刻は谷口与鹿の作で神技といわれ、屋台彫刻中の逸品である。豪華絢爛の屋台である。

石橋台 上二之町上組、下神明町西組

沿革 宝暦創建と天明創建の2つの説がある。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来する。弘化から嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863)大改修し、旧台を古川町に譲った。
文久改修 設計 村山勘四郎 工匠 畠中久造 彫刻 下段獅子 村山勘四郎 中段彫り龍 浅井一之 牡丹 中川吉兵衛 見送り 朝鮮の段通
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は長唄石橋物のうち、「英執着獅子」を取り入れたものである。濃艶な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳と舞い納める構成である。明治25年(1892)に風紀上よくないと中止にされたが、昭和59年に復活された。重厚で調和のとれた屋台である。

五台山 上二之町中町

沿革 創建年代未詳。寛政年間(1789年から1801年)には「盧生」の台名で操り人形があった。文化年間(1804年から1818年)に改修。中国名山の「五台山」と名を改めた。天保3年(1832)の火災に焼失の後、天保8年(1837)再建。明治20年から23年改修。昭和48年修理。
天保再建 工匠 谷口延恭 飛獅子彫刻 立川和四郎
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内御所車
特色 朱塗り格子を透かして、回転する御所車がみえる。車は京都御所御用車師中川万吉の作。獅子牡丹の刺繍幕は円山応挙が下絵を描き、下段の飛獅子彫刻は幕末の左甚五郎といわれた諏訪の立川和四郎作。見送り幕の雲龍昇天図は明治の帝室技芸員幸野楳嶺の原作で、京都西陣で製作に半年を要した綴錦織の大作であり、各所に由緒を誇る屋台である。

鳳凰台 上二之町下組

沿革 創建年代未詳。寛政11年(1799)、大黒天のからくり人形を大国台に譲り、その後文化4年(1807)には「迦陵頻」の名で曳行している。またその当時、「鹿島」と呼ばれていたこともあるが、文政5年(1822)に「鳳凰台」と改称した。天保元年(1830)から改修を行なったが、天保3年の火災で焼失、天保6年から8年に再建された。明治8年(1875)、大正年間に小修理。昭和37年から39年に大修理。
天保再建 工匠 原屋喜助 牧野屋忠三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根中央部に赤木白毛の長い鉾をたて、根部に緋羅紗の屋根覆いをまとっている。赤黒黄3色の大幕はオランダ古渡りの珍しい毛織りといわれる。全体に堅牢で、金具も目立たなくして木材の美しさを強調している。狭い道路の通行に備え、上段蛇腹形支輪が伸縮するようになっている。

恵比須台 上三之町上組

沿革 創建年代未詳。明和年間(1764年から1772年)、越前宰相より大幕などが下附されたことは、高山富裕町人の大名貸を想起させ、当時すでに屋台があったことがわかる。初めは「花子」と呼び文化7年(1810)に殺生石の操り人形に替えて「殺生石」と改名。祭神に恵比須神を祀ることから「蛭子」と呼ばれることもあったが、天保年間(1830年から1844年)頃から「恵比須台」となった。弘化3年(1846)から3年間かけて大改造。明治18年、昭和43年修理。
弘化改造 工匠 谷口延恭 谷口与鹿 彫刻 谷口与鹿
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段の龍、中段の獅子、手長足長像の彫刻はいずれも名工谷口与鹿が情熱を傾けた会心の作。金具の鍍金には14キログラムの純金が使用される。見送りは幡見送りといわれる形式で、西欧の風俗を画材とした綴錦織。鯉の伊達柱は藤原家孝卿の牛車に使用されたものである。

龍神台 上三之町中組

沿革 創建年代未詳。安永4年(1775)、弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807)の屋台曳順に「龍神」の台名がみえる。またこの頃、竹生島弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれた。文化12年(1815)に改造し、弘化3年(1846)に修理。明治13年(1880)から3年がかりで再改造し唐破風屋根を現在の切破風に替えた。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻を取り付ける。
文化改造 工匠 谷口紹芳
明治改修 工匠 彫刻 谷口宗之 塗師 小谷屋正三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じられる。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成である。見送りは試楽祭には望月玉泉筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表装されたものを用いる。

崑崗台 片原町

沿革 創建年代未詳。安永3年(1774)の組内古記録があるが、文化4年(1807)には「花手まり」の名で曳行をしている。その後、「林和靖」と改称の後、中国にある金銀の産地「崑崗」にちなみ、「崑崗台」と改称した。嘉永2年(1849)に大改造。昭和9年から11年、昭和41年修理。
嘉永改修 工匠 上野屋宗次 塗師 島田屋小三郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 天保年間(1830年から1844年)頃までは、中国の故事にちなむ林和靖と唐子のからくり人形があった。棟両端の金幣、屋根上の宝珠は「崑崗」が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊をあらわしている。見送りは中国産の刺繍、寿老人と鹿の図である。

琴高台 本町1丁目

沿革 創建年代未詳。文化4年(1807)に「布袋」の名で曳行した記録がある。文化12年(1815)には飛騨の漢学者赤田臥牛が「支那列仙伝」から「琴高、赤鯉に座し来る」の故事を引いて現台名に改めた。天保9年(1838)に、組内に居住していた谷口与鹿が中心となり大改造。明治26年(1893)、昭和32年、昭和41年修理。
天保改造 工匠 彫刻 谷口与鹿 金具 伊勢屋治左衛門 塗師 輪島屋儀兵衛
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 鯉魚と波浪を刺繍した大幕を用い、伊達柱は黒塗地に鯉の滝昇りの大金具を打つ。欄間にも与鹿の鯉魚遊泳の彫刻があるなど、鯉づくしの意匠となっている。本見送りは徳川家16代家達書の琴高仙人の詩、替見送りは垣内雲嶙の琴高仙人図である。

大国台 上川原町

沿革 寛政8年(1796)に創建され、日枝神社の宮寺松樹院にちなみ、「松樹台」の名で曳行していた記録がある。寛政11年(1799)、上ニ之町の現在の鳳凰台組から大黒天像を譲り受けて「大国台」と改称した。弘化4年(1847)に大改修。明治16年(1883)、大正13年、昭和39年に修理。
弘化改修 工匠 石田春皐
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 構造上に工夫がこらされ、屋根棟と上段の縁が違う動きをして、しなう美しさを出している。祭神となっている大国天の人形はもとは腹中から七福神が舞い出るからくり人形であったという。毎年、くじによって決められる屋台曳行順で、この屋台の順位が若ければその年は米価が高く、その反対であれば安いという伝承がある。中段欄間の石田春皐作飛龍、下絵の土村栄斎作獅子の彫刻が引き立っている。

青龍台 川原町

沿革 創建年代未詳。明和3年(1766)に存在した記録がある。文化4年(1807)には、「道成寺」の名で曳行しており、娘道成寺のからくりを演じたという。文化12年(1815)に改修。天保3年(1832)、火災により焼失し、嘉永4年(1851)に再建した。この頃、台名も「青龍台」と改めた。明治23年(1890)大改修。明治40年、昭和30年修理。
明治修理 工匠 船坂栄蔵ほか
構造 入母屋造屋根 4輪内板車
特色 国主金森氏が、特に日枝神社を崇敬すること篤く、この屋台組が神社膝元の重要地区にあったことなどから、金森氏の代行として宮本と呼ばれて、家紋梅鉢を使用し祭事を主宰する特権を持っていた。これは明治24年に宮本が輪番制になるまで続いた。台形も3層で、天守閣型の屋根となっており、他の屋台と趣を異にしている。

神楽台 八幡町、桜町

沿革 宝永5年(1708)、以前に金森重勝(左京)から寄進されていた大太鼓を、荷車風のものにのせ、獅子を舞わせて祭礼に巡行した。享保3年(1718)には氏子の有力者風井屋長右衛門が神楽台を新調寄付した。文化12年(1815)に大改造。嘉永年間(1848年から1854年)に修理。明治37年(1904)に現在の台形に改造された。昭和9年、昭和41年修理。
文化改修 設計 田中大秀  工匠 風井屋長右衛門
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 屋根無 太鼓昇降 3輪外御所車
特色 金森重勝寄進の太鼓は音響遠近にとどろき、文久年間(1861年から1864年)には他組の妬みをうけて鎌で切りつけられたと伝えられる。祭礼に際しては、侍烏帽子、素襖姿の5人の楽人をのせ、獅子舞を付随させる。棟飾りの鳳凰と、天照、八幡、春日の3神を表した金幣束が独特である。

布袋台 下一之町上組

沿革 創建年代未詳。天明年間(1781年から1789年)には布袋のからくりが行なわれたと伝えられる。文化8年(1811)、現在の台形に大改修された。大正初年、昭和35年、昭和42年修理。
文化改修 工匠 古田与兵衛 彫刻 中川吉兵衛
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 からくり人形は、36条の手綱で操り、綾渡りと呼ばれる極めて精緻巧妙なものである。六段崩しの曲につれ、男女2人の唐子が3本の綾と2本の巻を回転しながら飛び伝い、機関樋の先端で所作をしている布袋和尚の肩に乗って喜遊すると、布袋の左手の軍配の中から「和光同塵」と書いた幟が出てくるという構成である。鳥居形の出入口や、下段の上部が中段の役目をするなど、文化年間以来小修理しか行なわれていないため、台形に古趣を豊かに残した屋台である。

金鳳台 下一之町中組

沿革 享保3年(1718)に曳行に加わったという伝承があり、天明年間(1781年から1789年)に曳行の記録もあり、創建年代は古い。文化年間(1804年から1818年)に一時休台。文政元年(1818)に再興して、神功皇后、武内宿禰の飾り人形の修理も行われた。嘉衛5年(1852)に改修。その後数度の修理をする。
文政再興 工匠 古田与兵衛
嘉永改修 工匠 角竹茂助
構造 切破風屋根 4輪内板内車
特色 棟飾りとして、台名を象徴する金地の鳳凰が翼を張っている。中段欄間には、四条派風に四季の草花が描かれている。人形の武内宿禰が抱いているのは応神天皇である。一見地味にも見えるこの屋台は、それだけに文政再興当時のおもかげをよく残しており、構築上、最も整備された形態をもつ屋台として聞こえ、初期の屋台の風格をしのぶ優美な屋台である。

大八台 下一之町下組

沿革 文化年間(1804年から1818年)、文政台組と分かれ、文政元年(1818)に高山で最初の3輪の屋台として創建された。明治41年、昭和30年、昭和46年修理。
文政創建 工匠 光賀屋清七 塗師 輪島屋儀兵衛
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 台名の由来ともなっている3輪の御所車のうち、外2輪は高山屋台中最大で、直径は1.56メートルある。屋根飾りには両端に八幡、春日大神を表す大金幣束を立てる。屋台囃子の名曲「大八」はこの組の作曲で、他の多くの屋台組でこれを崩して使っている。中段は幕を張らず、御殿風の吹きぬけで楽人が見えるようにし、以前はここで雪洞を灯し、青、緑、桃色の直衣烏帽子をまとった6人の童子が大八の曲を優雅に奏した。

鳩峯車 下二之町上組

沿革 延享4年(1747)以前の創建で、大変古い屋台である。当時は「大津絵」という台名で「外法の梯子剃り」と呼ばれる福禄寿と唐子のからくり人形があった。文政9年(1826)、大破のため休台し、天保8年(1837)に再建された。この時4輪より3輪御所車となり、八幡宮にちなみ台銘も「鳩峯車」と改めた。安政年間(1854年から1860年)にも大破のため休台し、慶応3年(1867)修理、明治27年(1894)大修理その後も数度の修理を重ね現在に至る。
天保再建 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎
慶応改修 工匠 谷口与三郎宗之
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 3輪外御所車
特色 見送り幕、胴掛け綴錦織の高価なもので、天保再建の際、購入したものである。これだけ贅沢な幕をしかも四方に掛けている屋台は他にない。

神馬台 下二之町中組

沿革 享保3年(1718)「高砂」の名で曳行したという。明和6年(1769)改造。文化13年(1816)に神馬の人形を新調し、この頃から「神馬台」と呼ばれた。文政13年(1830)再改造。安政年間(1854年から1860年)、明治35年(1902)修理。その後も数度の修理をして現在に至る。
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段4隅の丸柱は中段に突き抜けて、先端に青龍刀を付け、四神旗をかけている。飾り人形は以前は高砂の翁と媼の2体であったが、文化9年(1812)に他組に譲り、現在は跳躍する白馬と2人の馬丁の人形を飾る。昔は、別名を暴れ馬といい、祭のときに隣りにあった組などよくけんかをしたという。紫鱗紋織り出しの大幕に刺繍された大般若面が印象的である。屋台囃子には雅楽の越天楽を用いる。

仙人台 下三之町上組

沿革 八幡祭の屋台行列は享保3年(1718)の開始と伝えられるが、その頃の屋台「湯の花」の組が分かれて仙人台の組ができたという。明和から安永の始め頃に仙人台の屋台が造られたのであろう。その後再建し、寛政5年(1793)の記録には「仙人台」の名がみえ、当時は久米の仙人と美女のからくり人形があった。文政年間(1818年から1830年)改修。その後数度の修理を重ねて現在に至る。
文化改修 工匠 古田与兵衛、浅井一之
構造 唐破風屋根 4輪車内板車
特色 最も古い形を残した屋台といわれる。以前は他の多くの屋台が唐破風の屋根であったというが、切破風に変わり、この屋台だけが唐破風の古態を残している。屋根飾りには極彩色の剣巻龍を前後に立てている。往時は久米の仙人が、洗濯する美女の美しさに見とれて雲上から墜落するというからくりがあったが、明治初期に廃止され、現在は仙人の像のみが飾られている。

行神台 下三之町中組

沿革 八幡祭の屋台行列の始まりといわれる享保3年(1718)には、屋台4台が曳かれたが、その1台「湯の花」から分かれて創建されたという。天保2年(1831)改修。明治8年(1875)の大火で一部を焼失し、同16年(1883)に恵比須台より部品を譲り受け再興した。その後明治36年(1903)より破損のため休台したが、昭和26年、大修理をして50年ぶりに復活し、屋台蔵も建造した。昭和43年、昭和59年修理。
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 祭神として、役小角(役の行者)の飾り人形を祀り、中段高欄は玉垣、上段高欄の4隅には密教の法具五鈷をさすという形態になっている。これは、当地域が、役小角を崇敬する一人の行者によって開拓されたため、その遺徳を追慕したことに由来する。またこのような由緒から、以前は道開きの屋台として常に神楽台につぎ全屋台の先頭を曳いていた。

宝珠台 下三之町下組

沿革 創建年代未詳。安永(1772年から1781年)頃の創建説もある。文政11年(1828)から12年(1829)に大改造。その後明治41年(1908)にも改修され現在の台形に改められた。以後数度の改修をして現在に至る。
文政改造 工匠 中洞村喜三郎
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 屋根飾りとして、雌雄の大亀一対と台名に由来する大宝珠3個を飾っている。以前は7色に染め分けられていた宝珠を下段高欄に飾っていたが、それは廃され、中段と屋根飾りに金銀の宝珠が飾られている。ケヤキ1枚板の台輪は高山の屋台中で最も美しいものといわれる。屋根の亀はこの屋台の名物で、ある朝、この亀がいなくなったので探していると、宮川の水の中にいた。そこに「名工の作った亀は水を求めて川に入る」と書かれた立て札が立ててあり、他組のいたずらだったという。

豊明台 大新町1丁目

沿革 創建年代未詳。はじめは「芦刈」という台名でからくり人形があったという。天保6年(1835)改造。この頃の台名も八幡宮の祭神応神天皇の豊明宮に因み、「豊明台」と改められた。明治33年から35年(1900年から1902年)大改修。その後も数度の修理をして現在に至る。
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪外御所車
特色 もとは天皇の即位する8角形の高御座を模した台形であり、明治改修以前まで、下段中段ともに、縁の4隅を切って8角形にしていた。現在はその名残を大幕の部分に残している。屋根飾りの大鳳凰と宝珠、上段の菊花彫刻、中段の牡丹彫刻、中段の白彫りの12支の彫刻、下段の唐獅子、御所車など、華麗に装飾された屋台である。

鳳凰台 大新町1、2、3丁目

沿革 創建年代未詳。文政元年(1818)に再興され、嘉永4年から7年(1851年から1854年)改修が行なわれた。明治40年から43年大修理。その後数度の補修をして現在に至る。
嘉永改修 工匠 谷口延恭 彫刻 谷口与鹿、浅井一之
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 切破風屋根 4輪内板車
特色 下段にあるケヤキ白彫りの谷越獅子の彫刻は高山の屋台彫刻中最大のもので、名工谷口与鹿の下絵をもとに、与鹿とその弟子浅井一之によって彫られたという。明治の改修まで3万坪(1坪は約9平方センチメートル)もの大量の金具が打たれている。本見送りは柚原双松筆の鳳凰の綴錦織、替見送りは西村五雲筆の龍の墨絵で、華麗で均整のとれた屋台である。

このページに関するお問い合わせ

教育委員会事務局 文化財課
電話:0577-35-3156 ファクス:0577-35-3172
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。