三仏寺城跡

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ページ番号 T1000968  更新日  令和3年12月21日

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よみ
さんぶつじじょうせき
県指定年月日
昭和46年9月14日
所有者
三福寺共有他
管理者
三福寺文化遺産保存会
所在地
高山市三福寺町井之上他
時代
平安時代から戦国時代(12世紀から16世紀)
法量など
城郭全体32870平方メートル

解説

 三福寺の集落背後に位置し、北に向かって延びる標高660メートルの城山山頂に築かれた山城で、尾根に設けられた4ヶ所の平地が主要な遺構である。三福神社のかなり東方から登る道が大手で、尾根に出てから右に登りつめた奥の平地が本丸跡であろう。平安時代の末に築かれ、飛騨では最も古い城跡である。保延、永治(1135年から1142年)の頃には平時輔が飛騨守としてこの城に在城した。3代目の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。4代目景家は4人の子息と共に京へ上がっていたが、治承5年(1181)、源義仲の軍に攻められ落城し、景家の室阿紀伊の方と2子で城主景綱の息女鶴の前は行方知れずとなった。義仲勢は飛騨の良馬を求めたといわれる。
 弘安(1278年から1288年)の頃には地頭の藤原朝高、畑六郎左衛門、藤原安高が在城したと伝える。
 大永元年(1521)、三木直頼在城、天文16年(1547)、三木家臣平野右衛門尉が入城したが、その子安室のとき鍋山城に転じ、直頼の男三木直弘が入城した。永禄7年(1564)、武田の武将山県三郎兵衛が飛騨へ討ち入った際に、直弘は城に火をかけ、桜洞の本城へ退いた。以後、三仏寺城は廃城になった。
 三仏寺城の下にある歓喜寺は、金森4代直頼が照蓮寺13世宣明の子治部卿のために建てた寺である。裏山に珍しい木地師の集団墓地がある。木地師の集団墓地は、ここと東山寺院群の宗猷寺墓地との2ヵ所だけである。

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