松倉城跡
- よみ
- まつくらじょうせき
- 県指定年月日
- 昭和31年11月14日
- 所有者
- 高山市
- 所在地
- 高山市松倉町城山2059番地
- 時代
- 室町時代(16世紀)
- 法量など
- 台帳面積7342平方メートル、実測面積4330平方メートル
本丸跡520平方メートル、外300平方メートル
二之丸跡830平方メートル
三之丸跡770平方メートル
解説
高山市街の西南、標高856.7メートルの松倉山頂に構築された山城である。高山盆地を眼下に見おろし、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通ずる街道を一望のうちにおさめることが出来る。
本丸、内曲輪の四方と外曲輪の西側、南側に石垣が現存する。二之丸は本丸の東にあり、南側に旗立石と俗称する巨岩がある。東側と南側に石垣が残存する。三之丸は本丸の南にあり、西側、南側に石垣、西南隅に1段高く角櫓跡がある。南中間櫓が二之丸、三之丸の中間にあり、三之丸より1段低く、東、南、西に石垣が現存する。
出丸が本丸の西方1キロメートルの山腹にあり、現在松倉観音を安置する。
北麓に城下町を経営したらしく、元禄検地水帳には町屋敷の名が見え、現に古町、馬場と呼ぶ小字がある。また、山中数カ所に家中屋敷と見られる大小の平地がある。
「飛騨の里」吾神池にそそぐ渓流をさかのぼるのが大手道で、下の七曲道と奥の七曲道があった。搦手は、千島町奥エチゴから登る。三木自綱の娘婿三木三沢の居城であった山下城との連絡路であった。
永禄年間(一説には天正7年)に三木自綱が築城し、桜洞を冬城、松倉城を夏城と称した。天正13年(1585)、金森長近と可重の父子が南北両面から飛騨に攻め込んだとき、自綱は田中城に籠り、二男秀綱に松倉城を守らせたが、自綱がまず敗走し、ついでこの城も、家臣の返り忠にあい閏8月6日ついに落城した。
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