旧高山町役場 附棟札及び新築関係書類

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ページ番号 T1000890  更新日  令和3年12月18日

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よみ
きゅうたかやまちょうやくば つけたりむなふだおよびしんちくかんけいしょるい
市指定年月日
昭和57年7月6日
所有者
高山市
所在地
高山市神明町4丁目15番地
時代
役場庁舎は明治28年(1895)、北土蔵は明治12年(1879)、北土蔵付属倉庫は明治28年(1895)
員数
3棟、2枚、8冊
法量など

役場庁舎本屋は桁行21.88メートル、梁間11.800メートル、木造入母屋造り、2階建、棧瓦葺
使丁控所は桁行5.445メートル、梁間5.005メートル、木造切妻造、カラー鉄板葺、本屋西側に付属する。
北土蔵は桁行4.700メートル、梁間3.640メートル、木造置屋根切妻造、桟瓦葺、北側に梁間3.018メートルの付属倉庫
附 棟札2枚

書類8冊2袋

  1. 役場建築平面図、立面図
  2. 新築に係る書類
  3. 新築日誌
  4. 見積・契約書
  5. 領収書
  6. 寄附金募集書類
  7. 寄附金名簿
  8. 収納原簿
  9. 開場式書類
  10. 上棟式、開場式書類

面積

役場庁舎本屋1階241.227平方メートル、2階238.8204平方メートル

上便所5.747平方メートル、使丁控所ほか43.598平方メートル、北土蔵南側便所4.979平方メートル

北土蔵1階17.108平方メートル、2階17.108平方メートル、北土蔵北側付属倉庫17.022平方メートル

南土蔵への渡廊下14.023平方メートル、南土蔵1階99.372平方メートル、2階99.372平方メートル

総延床面積851.549平方メートル、敷地面積1253.98平方メートル、東側小公園(18-2番地)220.91平方メートル

解説

 本建物は、高山市三町伝統的建造物群保存地区内の南端にあって、一之町、二之町、三之町を見渡す重要な位置にある。江戸時代には、町会所の建物があって一之町村、二之町村、三之町村の町年寄が3人出勤して事務を執っていた。後、1人ずつの月番となって、住民の戸籍、家普請願、宗門改、訴訟、旅行願、御番所通過手形下附願など、現在の市役所が扱っているような仕事をしていたのである。
 明治元年には里正詰所、4年には筑摩県区役所、6年には戸長詰所、8年には高山町事務扱所、12年高山町戸長役場となる。明治22年7月1日には、現在の地方自治にあたる「市町村制」が施行され、戸長役場から高山町役場となった。同年8月、戸長石川勘蔵の辞任により、永田吉右衛門が10月1日より町長に就任した。その頃、役場の行なわなければならない地方自治行政事務は増加傾向にあり、また高山町の将来的発展を計画する新町長の施策から、役場庁舎の新築が提起されたのである。
 明治23年12月5日、直井佐兵衛、住民平ら町会議員で役場新築委員会を構成した。議論を重ねたうえ準備をすすめ、26年1月には役場担当係員を置いて事業に着手している。同年10月、三之町島田藤三郎旧宅に仮役場を設け(同27年7月、安川通寺境小七郎宅に再移転)、翌年27年3月頃から本格的に工事を始めた。6月27日には建前竣工、同年11月3日には略落成をして、仮役場から移転して、各委員の祝宴を開いている。そして、すべての支払いを翌年の28年夏頃までに終え、同年11月3日、役場前広場に仮設舞台を作って盛大に新築落成式が行なわれた。
 大工棟梁は、飛騨の名工といわれた坂下甚吉で、舟坂直蔵、白川惣六ら諸職人も一流の人たちによって建てられた。坂下甚吉は、8歳の時から永田家出入りの大工で、当時は34歳である。永田町長の自費で東京、名古屋に出張させてもらい、各地の明治初期建築を見て勉強をしたのである。甚吉は昭和5年、70歳で没するまで高山を中心に多くの社寺や洋風建築、邸宅を手がけた。旧三星製糸所、旧押上邸洋館など、伝統的な技法を基にした上で洋風を巧みに消化し、その評価は高い。建築材は総桧で、宮村餅谷の官材を使用している。材は宮川を流し、枡形橋で川上げした。甚吉らの目でよりすぐられた良材をふんだんに使用しているので、現在も土台、構造体はしっかりしている。工事費は土地購入費が600円、建築費が3719円1銭6厘(明治28年町会議事録242貢より)、合計4319円1銭6厘であつた。当初予算は1600円であったが、程度を良くしたため工事費は倍以上となってしまった。新築委員会で議論があったが、不足分は永田町長が責任をもつことで工事を進めている。新築費用財源として、1600円を320円の5ヵ年賦(明治27年から)にし、さらに77円45銭9厘を27年に、高山町住民の財産状況に応じ戸別割で課している(明治28年町会議事録315貢より)。また、不要になった建物や木材などを売却して、236円85銭7厘を得ている。さらに、足りない分は、有力者から寄付金を募集した。総額1804円70銭(明治28年町会議議事録315貢より)の内、永田町長は101円50銭、他の人は40円から1円まで、総数490人余が寄附をしたのである(明治28年10月高山町役場新築費寄附金収納原簿より)。職員数は、永田町長以下総勢10人程で、ぜいたくすぎる建物だと一部に批判もあった。これらのことは、附文化財指定の新築関係文書に詳述されている。
 外観は、和洋折衷である。瓦は、当時飛騨でほとんど使用されていなかったが、永田町長は硬度焼成瓦を入手しようと岐阜市の知友奥村正介に研究を依頼した。そして、三河の高浜から福井総八郎を呼び寄せ、下切町で窯をつくって役場用の瓦を焼かせたのである。瓦には「福重」の刻印がのこる。昭和58年の屋根修理時にも、瓦製作を高浜市の一流職人に依頼して鬼瓦、飾瓦、軒瓦等を復元した。その際、向って右手玄関屋根は三ッ巴、左手玄関屋根は、格調高い菊水文様であることが判明し、復元することができた。玄関屋根はむくり屋根のため、菊と水をあしらった文様を水平にするには、軒瓦すべて1枚1枚角度を違えなければならなかった。ガラスも初めて導入され、硝子障子という名称で各所に使われた。戸車はカシの木で作ってある。今も気泡が入る不均一な吹きガラスが一部に残る。2階のガラス窓、建具は、大部分が建築当時のものだが、1階は改造の度合が高く、大部分の建具が失われていたが、契約書と議事録により考察して復元をした。建具工事は白川惣六が請け負った。昭和58年修理時、神明町白川氏の物置に玄関大戸が発見されたので、それを寄贈してもらい元の場所に取り付けている。
 鉄欄は、東京神田区鎮美川通の鋳物問屋田中精之に特注して取り付けた。花の連続文様で、飛騨へ遅れてやってきた文明開化の象徴であった。資材は、東京から桑名まで船便で運び、岐阜までは荷馬車で運んだが、13枚ほど大破して、一悶着した事もあった。それらの交渉には住民平が活躍している。この鉄欄は、古今未曾有のもの(田中登作『飛州』)と、高山町民はもちろん、内外に高く評価された。
 高山の伝統的な町家は、前側に庇を設けず2階建柱に腕木を出して小庇をつけ、大屋根の軒の出が深く、屋根の勾配が緩やかなのを特徴とする。しかし、この高山町役場は、伝統的な外観を保ちながら、屋根勾配を急にし、瓦を取り入れ、硝子障子を入れ、鉄欄を設けて明治の建築様式を取り入れたのである。
玄関は2つあり、向って左は開かずの玄関といわれ、町長、議員及び来賓の専用、右は町民用、さらに右角に職員用の通用口がある。役場前広場には、正面に大きい門があるが、これは甚吉の設計図と、当初の写真から復元をしたものである。東側の小さい門は、昭和58年の整備時に新設されたもので、明治当時にはなかった。内部は、1階に人民控所、使丁控所、食堂、事務所、応接所、議員控所、2階には議場を設けた。1、2階共、市役所、公民館時代に各所で造作がされていたが、昭和58年からの大修理で元通りに復元をした。事務室、応接所、人民控所、議場は高価な「海軍ズック」を敷物にして、机とイスで執務する近代的な役場を目指している。敷物、机は新築委員会で決定できず、在京中の永田町長に一任をして東京から取り寄せている。
 2階議場は広い空間をつくり、天井は変形折り上げ格天井の豪華なものである。新築当時、電灯はなかったが、明治37年頃になってようやく電灯がつけられた。
北側土蔵は明治12年8月、書物庫として300円57銭5厘で建てられたが、明治28年、北側に付属倉庫を新築している。
 永田町長の役場新庁舎に対する強い希望と、建物のセンス、住民平、直井佐兵衛ら新築委員の精力的な働きによってこの斬新なデザインの高山町役場は完成したのである。
 大正3年7月4日には、南側に土蔵の増築を議決し、翌4年に事業費1750円をかけて新築している。上塗りは翌5年10月に行なった。この土蔵は軒の出が短く、大正建築らしさが出ている。桁行11.88メートル、梁間9.7メートル、北側に庇が付く。工事費は350円、今村永治郎が建築工事を請負っている。2階窓扉中塗上に墨書が残り、それには、大正5年の年号があることから、上塗りまで完成したのは大正5年と思われる。この土蔵は、文化財に指定されていないが、伝建地区内の伝統的建造物に指定されている。
 昭和11年には、市制施行により高山市役所となった。昭和43年10月28日、市役所は馬場町2丁目115番地、元東小学校校舎へ移転し、行政の中心としての役目を終えた。その後は、公民館として利用されたが、新文化会館が昭和町に建設されたため、歴史的建造物として保存することになった。昭和57年に市の文化財として指定し、昭和58年から60年に文化庁と岐阜県の補助を受けて復元工事と周辺環境整備を行なった。事業費は、全体で9190万7000円かけ、昭和61年4月1日、高山市政記念館として開館したのである。

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