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高山の歴史

ページ番号 T1000846  更新日  平成27年2月16日

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地勢・気候

地勢・気候の写真

飛騨は険しい山の中、山が襞のように重なり、その間に狭い谷が幾筋も幾筋も伸びる。そこにはポツンポツンと山村集落が散在しているが、その中に飛騨では大きな高山、国府・古川盆地が広がっている。
初めて高山を訪れる人は、飛騨へ向う途中で、こんな山奥に果たして家があるのだろうかと不安になる。しかし、高山線で分水嶺の真下を宮トンネルで抜けると、あるいは国道四一号線で宮峠を越えると急に空が広くなる。やがて高山の街に入り、山の中にこんな大きな町があることに驚くのである。 飛騨は日本列島のほぼ中央に位置し、古くは縄文時代から東西南北の文化が押し寄せ、複雑に交錯しあい、発展をしてきた。気候は内陸性気候で、昼夜、夏冬の気温差が大きく、湿度は低い。冬は大変寒く、サラサラとした雪が舞い、冷え込むときは氷点下15度までも下がることがある。夏は、日中まぶしくて目を開けていられないくらい日差しが強いことが多く、それでいて湿度は低くカラッとした爽快感が味わえる。夜は大変涼しくなり、布団をかけて寝なければ風邪をひいてしまうほど、気温が下がる。 高山盆地からは東に乗鞍岳、穂高岳、槍ヶ岳、笠ケ岳、西に白山、南に御嶽山が遠望でき、風光明媚なところが随所にある。飛騨八景、飛騨名所図会にその風情が描かれ、また漢詩、和歌にも飛騨の自然美あふれる情景が歌われてきたのである。さて、このような風土の中でどのような歴史が生まれてきたのであろうか。

縄文から古墳時代

縄文から古墳時代の写真

飛騨には縄文時代の遺跡が非常に多い。一万年前に使われた「有舌尖頭器」や、八千年前の押型文土器が発見され、随分古くから文明が開かれていたことが想像される。片野町の糠塚遺跡から発掘された「浅鉢形土器」は国の重要文化財に指定され、また上野町の垣内遺跡からは75基の住居址と環状列石が発掘された。飛騨の山地にはクリ、ドングリ、クルミなどの植物資源、イノシシ、クマ、シカなどの獲物が豊富で、豊かな自然の中で狩猟採取が繰り広げられていたのである。縄文時代前期(約6000年前)の気温は今より2から3度高く、海も今より2から3メートル高くて現在の陸地にまで海岸線が及んでいたことを考えれば、縄文時代の高山は結構暖かかったことになる。
弥生時代の始まりは、縄文文化に押されて遅れたことになっている。しかし稲作そのものの始まりが遅れたとは考えにくく、近い将来歴史は塗り替えられるだろう。弥生の遺跡は江名子ひじ山、赤保木遺跡が知られている。
古墳時代の始まりもあまり解明されていない。正史の中に初めて登場する飛騨の事件が両面宿儺の反乱である。「日本書紀」によれば、身体が1つで両面四手四足の怪物宿儺が朝廷の命令に従わず、仁徳天皇の65年将軍難波根子武振熊によって討伐されたと記されている。やがて、飛騨の豪族も中央に従うようになったということになっている。現在、5世紀に築かれた冬頭王塚古墳が飛騨では最も古い古墳とされ、大和朝廷からの下賜品と考えられる鉄剣・鏡が発掘されている。また、平成4年には県指定史跡「赤保木古墳群」の中の5号古墳が発掘され、竪穴式石室を確認した。冬頭王塚古墳の時期と同じ5世紀中頃と推定され、さらに古い古墳の発見が今後もありうることを示している。古墳時代後期は、横穴式石室が導入された時期で、三福寺町の小丸山古墳、西之一色町の岩屋古墳、上切町の寺尾古墳群などが造られている。終末期になると山頂に近い山腹に横穴が掘られるようになり、三福寺地区に発見されている。昭和63年、滅失はしたが、三福寺町桧山古墳から50体近い人骨が発見された。横穴で現存するのは、斐太高校の裏山にある杉ケ洞横穴のみで、これらの横穴の被葬者は、朝廷によって送りこまれた氏族集団の墓と推定される。

白鳳から平安時代

白鳳から平安時代の写真

高山の白鳳寺院には、確かなところで三仏寺廃寺、東光寺跡があるものの、国府・古川盆地には杉崎廃寺ほか8ヵ寺と多い。しかし奈良時代創建の寺院は国分寺・国分尼寺(辻ケ森三社境内)の2寺が高山にあるだけである。古墳から白鳳時代にかけては、政治の中心地が国府・古川盆地にあったと思われる。奈良時代になってから東西南北交通の便が良い高山に国府が置かれ、官寺である国分寺と国分尼寺が造営されたのである。
美濃・飛騨の寺院にかかわる最古の記録が「日本書紀」に出てくる。「朱鳥元年(686年)、大津皇子の謀反に加わった新羅の僧行心が、その学識を惜しまれて飛騨の伽藍へ流された」という記載であるが、この「飛騨の伽藍」がどこなのか大きな課題となっている。
律令制下では、飛騨は山国であり、納める米や織物がないため、大宝令(701年)では飛騨の調・庸(絹、布、糸などを納めるもので、主に成年男子に課せられた)を免じ、50戸ごとに匠丁(木挽や大工)8人、斬丁(炊事係)を2人、計10人を都へ差し出すこと、毎年交代して勤務し、里に残ったものが匠丁の食料を運ぶということを決めている。飛騨工は毎年約100人が徴用され、1年に330日(後に250日)以上350日以下の労務を強いられ、厳しい労働に耐えかねて逃亡する者も多かった。平安初期の太政官は「飛騨人の言語容顔は他国と 異なり、すぐわかるはずなので、早速捕えて差し出せ」と諸国に命じたこともある。平城京、東大寺、平安宮の豊楽院や大極殿などの造営に貢献し、名工も生まれた。その技は、現代も高山の木工産業や精密機械工業に受け継がれている。
保延、永治(1135年から1142年) の頃には平時輔朝臣が飛騨の守として三仏寺城(三福寺町歓喜寺の裏山)に在城していた。3代日の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。4代目景家は4人の子息と共に平家の臣として京に上っていたが、治承5年(1181年)木曽義仲の軍に攻められた。留守を預かる景家の室阿紀伊の方と、二子景綱の息女鶴の前は臣下と共に戦ったが片野町右光山で破れ、三仏寺城に籠城したが城は落ちた。義仲勢は大軍事行事を起こすにあたり、飛騨の良馬を求めて攻めて入ったといわれる。

鎌倉から戦国時代

鎌倉時代は、政治の中心地が広瀬郷、荒城郷(現在の国府、古川町)の方へ移ったと考えられる。飛騨には多好方、好節父子が飛騨の地頭に補任されたことが「吾妻鏡」に出てくる。この多氏は元々都の伶人(楽人)で、源頼朝や北条氏に仕えた一流の舞楽演奏家であった。飛騨各地の祭礼に舞われる闘鶏楽、鶏毛打は多好方らが教えたものと伝わる。
室町時代初期の飛騨は、守護の京極氏が南飛騨・益田に、国司の姉小路氏が北飛騨に勢力を競っていた。当時、国司と守護は併置の方針があり、守護は一国の行政政務官として軍事指揮権をもち、次第に領国支配を進め国司の権限を侵略したのである。
京極氏は近江の守護・佐々木信綱の四男、氏信を祖とする。京都の京極高辻に館を構えていたので「京極」と号し、代々幕府から守護に補任された。
姉小路氏は、建武の中興(1334年)に家綱が南朝方の飛騨国司に任ぜられたといわれる。その弟の尹綱は飛騨をまかされていたが、応永18年(1411年)、足利義持(第4代) の命を受けた京極高光、高数らによって討たれた。
その結果、姉小路は小島城にいた小島家を嫡流とし、向小島城の小鷹利家と、古河城の古河家の三家に分裂し、飛騨の最南端には京極氏の被官・三木氏が置かれた。この応永の乱後、飛騨は神岡町周辺の江馬氏、古川盆地に姉小路三家、大野・益田に京極氏と三氏が鼎立したのである。
中央では応仁の乱で戦乱が広がる中、飛騨では「文明飛騨の乱」(金森史)が起きて姉小路、京極勢が一進一退の戦いをしていた。後、京極側では多賀氏、高山外記などが守護代として勢力を伸ばし、天神山(現在の城山)に城を築いた。また、広瀬郷には広瀬氏、白川郷には内ケ嶋氏、高山の中山に岡本豊前守、三枝郷に山田紀伊守、江名子に畑六郎左衛門、大八賀郷に鍋山豊後守などが割拠していた。これら飛騨の豪族は隣国の上杉、武田に強く影響されていたが、両氏の衰退とともに力を失うことになる。そこで台頭してくるのが萩原町桜洞城の三木自綱で、永禄元年(1558年)、広瀬氏と結んで高山外記、山田紀伊守を滅ぼした。そして、天正10年(1582年)、三木氏は飛騨分け目の合戦といわれる国府町八日町の戦いで江馬輝盛に勝ち、制覇したのである。三木は、自ら絶家となった「姉小路」の姓を名乗り、松倉城を築城している。

金森時代

金森時代の写真

豊臣秀吉は天正13年(1585)七月に越中の佐々成政を攻めた。その際、越前大野城主であった金森長近は飛騨の三木氏攻略を命じられた。長近は部隊を二手に分け、養子可重は南から桜洞城、鍋山城を、長近軍は牧戸、小鷹利、小島の各城を攻め、同年8月には三木氏の松倉城を攻め落として飛騨を平定したのである。しかし、金森進攻の先導役を務めた在地武将の反乱、一揆が1年間は続いた。そして天正14年8月7日、長近は飛騨国3万3千石の国主として入府した。また関ケ原の戦では徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(美濃市)1万8千石、河内国金田(大阪府)3千石を加増した。
入国した長近は、当初漆垣内町鍋山城に城下をかまえたが土地条件から天神山古城に城を築くことにした。城の建設は天正16年(1588年)から始め、慶長5年(1600年)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後3年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。
また、城と同時に城下町の工事も行なわれている。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところ(三町)を町人の町とし、京都になぞらえて東山に寺院群を設けた。農民一揆の対策としては、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院)を高山城と向かい合わせに配置し、人の心を安め、宗和流茶道を初め、寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行なったのである。
重要施策としては商業振興、鉱山資源の開発、山林資源の開発がある。関ケ原の合戦時には、表石高の倍近くになる6万石余並の軍役が負担できたともいわれ、4代頼直は江戸の大火の際に桧の角材千本を献上している。
高山における金森氏は6代107年間続いたが、元禄5年(1692年)7月28日、頼ときの時代に突然出羽国上ノ山(山形県) に転封となって金森氏による政治は終わったのである。上ノ山では、そこにいた「土岐氏」が移封され、上ノ山城の破却が進行中であった。頼ときは上ノ山で5年間山林調査に力を入れていたが、元禄10年(1697年)、今度は美濃国郡上藩に転封となる。頼昔は江戸芝の屋敷で亡くなり、孫の頼錦が後を継ぎ、幕府の奏者役を命ぜられた。そのため多くの費用を必要としたこともあり、年貢を定免法から検見取りに改めたため4年半にわたる「宝暦郡上騒動」が起こっている。これで金森の本家はとりつぶされてしまったが、分家の旗本左京家は3千石のまま越前に領地替えになり、現在も現地に子孫が在住している。

天領時代

天領時代の写真

金森氏移封後の飛騨は幕府直轄地となり、代官には関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀が高山城在番を命ぜられた。金沢藩は4から5百人の藩士を半年交替で駐留させ、「飛州高山在番諸法度」を設けて城を管理している。
元禄8年(1695年)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取壊しを開始、6月18日には全てを終えて帰藩した。取壊しは地元の者も金沢藩に加わってためらいなくどんどん行なわれ、建築材や庭木を我先に運び出したと「願生寺由来記」は記載する。
幕府直轄地時代は25代、177年間続き、11代までが代官、12代大原彦四郎から郡代に昇格をしている。
明和8年(1771年)、大原代官は幕府の命令で飛州全山に官材の元伐を中止、安永2年(1773年) には飛騨の村々の代表を集め、検地のし直しを言い渡した。飛騨の農民たちは田を少ししかもっておらず、厳しい年貢がさらに厳しくなると越訴、駕篭訴などをして検地中止を願い出た。ここに明和8年(1771年)から寛政元年(1789年)までの大原父子2代、18年間にわたる農民一揆が起きたのである。その中に主な事件が3つ含まれていて、明和、安永、天明騒動と名づけられている。明和・安永騒動では9千人余の農民が罰せられ、大原彦四郎代官は飛騨を5万5千石に増石した功績により郡代に昇格したのである。しかし、天明騒動では大原亀五郎郡代の政治不正が問われて、郡代は八丈島へ流罪、農民側の罪は軽くて済んだ。
善政をつくした代官・郡代もいる。8代幸田善太夫は飢饉のために馬れいしょを農民に作らせ、「善太夫いも」、「せんだいも」と今も呼ばれる。20代豊田藤之進は渋草焼を起こし、蚕業を盛んにした。7代長谷川忠崇は「飛州志」を著わしている。19代大井帯刀は天保飢饉の際に、飛騨はもちろん出張陣屋(越前本保)領内でも救済措置を講じた。

明治から大正時代

慶応4年(1868年)、飛騨国最後の郡代新見内膳が江戸へ逃げ、幕府直轄時代はあっけなく終わった。同年2月7日には竹沢寛三郎が高山陣屋へ入り、続いて3月3日には梅村速水と交替して飛騨県(翌月高山県と改称)ができた。梅村は熱意と新しい計画で政治改革をしたが、古いしきたりに慣れ親しんだ飛騨の人には受け入れられず、梅村騒動が起きてしまう。明治4年には筑摩県、同9年には岐阜県に合併された。
明治前半は市町村制や議会制度が始まり、高山町役場の新築、飛騨支庁の設置など地方自治が発展をしている。また、近代産業の育成は、富国強兵に必要であったため内務省が力を入れた。高山では開産社、永昌社、三星製糸など製糸業が全盛時代を迎える。
高山線の建設促進運動は明治から始まり、大正6年には「飛騨鉄道速成同盟会」が組織された。大正9年には、高山線の第一歩である岐阜-各務原間が開通をした。

昭和から平成時代

昭和9年10月25日、待ちに待った高山線が全線開通した。しかし鉄道の開通は飛騨の開発に大きく貢献するはずだったが、やがて戦争に突入し、飛騨の近代化は戦後を待たなければならなかった。
昭和11年11月1日、高山町と大名田町が合併して市制を施行。しかし翌年には日中戦争が始まり、国民は総動員されてゆく。昭和20年8月2日、高山に爆撃予告ビラがまかれたが15日に終戦を迎え爆撃はまぬがれた。また、戦中の昭和18年には、上枝村と合併している。
戦後は農地改革により、経済界の再編成が行なわれ、昭和23年には早々と乗鞍登山バスの試運転を開始した。また、上水道の給水工事、大八賀村との合併、財政再建団体からの脱出、衛生センターの建設と近代化を進め、昭和30年代後半には昭和40年の国体に向けて町を美しくする運動が繰り広げられた。高度経済成長期にあって、町並保存、川を美しくする運動はこの頃から始まり、観光対策も進められたが、宿泊客は下呂や平湯が多い状況が続いた。
昭和40年代になると屋台会館、飛騨の里の開館、乗鞍スカイラインの開通など観光客の受入体制が整い、入込数が飛躍的に伸びていったのである。昭和50年から60年代はイベントが数多く開催され、昭和63年7月にはぎふ中部未来博覧会が、同年9月から10月には飛騨・高山博が開幕している。
平成の幕開けは、中部縦貫自動車道の建設計画から始まった。観光客数は年間250万人を越える今、他の都市が既に失ってしまった有形・無形の文化財を高山市が持ち続けるには市民の大きな理解と協力が必要である。ここに記した高山の歴史を正しく知るために、欠くことのできない文化財を過去、現在、そして未来の子孫へと伝え遺されていくことを切望する。

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